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日記的空間

主に、私見のために使用するスペースです。 所々、日記的に気ままに書いたりと、アトランダムな使用をしていきます。

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不可能性の時代

期待しすぎるとロクなことがねぇ

アイシールド21の登場人物、武者小路紫円、呼び名はキッドの口癖でしたか。
全くだ、と思う。
というわけでバイトの面接4連敗、さらに門前払い二つとなりましたわ^^;
さすがに嫌になってきました…
今回の面接には少々期待が過ぎたのでしょうか、これまで気にも留めてこなかった(というより受かることを期待していなかった)からでしょうかね(苦笑)
いずれにしても、いい加減にしないと、飢死ぬなぁ…
よほど私は面接に向いていないのかな。必死に追いかけても捕まえるだけの糸口が一切見出せないぞ^^;

さて、今回の話題は私見にしようか徒然にしようか迷ったのですが、あえて徒然にしてみました。
大澤真幸先生の著書「不可能性の時代」について書いてみようと思ったのです。
秋葉原の事件での容疑者に対する行き過ぎなまでの過去における暴露報道とかも書いてみようかと思いもしましたが、それは今回は書かないことにします。
思ったより分量がいかなさそうなんですね^^;
不可能性の時代、この本は正直分かりませんでした(爆)
戦後の時代区分を理想の時代、夢の時代、虚構の時代という三分割を取って、そのなかでも夢の時代は理想→虚構という流れの過渡期と見ることで、大きく理想の時代と虚構の時代に区別しています。
時代が下るにしたがって、世界の現実は虚構のベクトルを強めていっているという内容である。
しかしながら、著者が例に挙げる映画なりの話の共通点というのがなんとも胡散臭い。
タイトルは何だったのかは忘れてしまいましたが、「この二つの映画には奇妙な共通点があって、それは追う追われるという関係が成立しているということ」ってそれはいくらなんでも強引過ぎるだろうという結びつけがあまりにも多い。
「何か分からないけれども、忘れてしまっている何かがあって、忘れているということさえも忘れているような、真の何かがあるのではないだろうか」と来たときには、いやそれは無いのと全く同じでそもそも知覚出来ないじゃないかと首を捻らざるを得ませんでした。
といった感じで、前提条件から疑問の噴出する内容でして、院生で大澤先生のゼミを受講している知り合いの方の話を伺ったところ、「あの先生は何を言っているのかが分からん」だそうですよ(笑)
アマゾンでのブックレビューを見ましたが、意外と高評価が多く、天才的な能力から私のような凡才には理解できない領域なのだろうかとも思うわけであるのです。
私にしてみれば、どっからそんな論理が出てくるんだよ、と思うところが多いわけではありますが、はてさていかなるものなのやら。
院生の方でさえも分からないとおっしゃるほどでもあり、その実大したこと無いのかもしれないという可能性もなかなかどうして捨て去ることが出来ません。

しかしながら、当著書の中でも本題ともいえる、現代社会――大澤氏はそれを不可能性の時代というネーミングで区分している――に論点が移行してくると、それはなるほどなと思えるような部分が見えてくる。
ネットでのブログなどを例にとり、たとえば引きこもりも多くの場合、引きこもった環境にネット環境をしいている点から、家族のような強固な必然性を帯びた関係を超えて、第三者とのつながりを持とうとしている世の中のありようを指摘しています。
氏はオウム教団など複数の例を取り、社会において家族という存在でさえも偶然性を帯びたものとして捉えるような人物が現れ始めているということを見ています。
これはつまり、家族でさえも「他でもありえた」という認識に立っているということです。
家族という存在は生れ落ちた瞬間にすでに規定されてしまうものであり、これ以上に必然性を帯びた存在は無いはずなのにもかかわらず、その家族さえも相対化し、その形式としての家族とは異なる真に家族なるものが存在すると見ているのである。
そうしたなかで、家族を超えたつながりを求めていく。
ブログなどのような形態で、他者とのかかわりを断ちながらも直接に他者とのかかわりを持とうとしているのである。
ここで氏は「他者性抜きの他者」という論理を展開していくことになる。
ここで現れた「他者性抜きの他者」という概念は、著書の中で雛形としてそれよりも前の段階から登場している。
虚構の時代が崩壊していく中で、二つの相反するベクトルに力が注がれていっていると。
虚構のベクトルがさらに強化された虚構、超虚構と、現実のなかで更なる現実をリアリティ――しばしばそれは暴力的なものである――を求める超現実と。
虚構が虚構としてではなく、現実として、つまりバーチャルがリアルとして現前するとともに、リアルのなかでも最も根源的な感覚である痛みへと回帰しつつある。
そこにおける矛盾が矛盾としてそのまま存在しているという世界だ。
論理そのものはいかなるものだろうかとは思う。そこの根拠としてはなんともあいまいな代物ではあったが、分からないでもないと感じた。
そこにおいて、物事の危険な部分を取り除いて、いいところだけを抽出しようという試みを見出す。
大澤氏は「カフェイン抜きのコーヒー」や「ノンアルコールのビール」、「セックスの危険な部分抜きのセックス」といった例を挙げて、結果としてその物事の本質さえも失っているとしている。
そのなかで「他者性抜きの他者」というロジックが現前化してくる。そしてこの響き。ロジックの正当性といったものは私自身、理解できない。しかしながらどこか的をいているような気がしないでもないのだ。
そして繰り返される「反復」。「ひぐらしのなく頃に」「時をかける少女」などを例に、反復される時を主題にする作品にも触れられている。
そして「九十九十九」を例に挙げ、ゲームをするのではなく、流れに身を任せたいという欲求を指摘する。
やはりなんだかそこに至るまでの理屈に納得がいかないんですけど、それ自体はなんとなく分かる気がするんですよねぇ。
帰着点が一般論に成り下がってる気がしないでもないですが…
まぁ、いずれにしても一面を突いている気はしないでもないなというところが実のところの感想。
論理自体は何言ってるかさっぱりなんだけれども^^;
他者性抜きの他者……か。
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