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最高裁、稀な違憲判決!

大学のレポートの準備に、ゼミでのレジュメ作り、学校の語学授業の予復習と、授業のペースが上がったために大忙しのこの時期に出てきたこの違憲判決。
かつて高裁だったと思いますが、判決があったときに私は記事を書いています。そのために反応をしなければ私の気がすまないという事態であるわけです^^;
だいたい、レポートにしたって期限が2週間で英語のサイトを見なければ完成させられないような課題を出してくる大学も大学だよorz
まぁ、逃げ出したところで追いかけてくるものですし、仮に逃げ切れたとしてもその代償は自身に降りかかってきますからね^^;
まったく、やってらんない( ´д`)

それはさておき、今回の違憲判決は国籍法第三条についてでしたっけ?二条?どちらかだったと思いますが、その判決内容について分かりやすく解説してあるページを発掘しました。
http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/200806040000/
そのなかでも、判決の内容として重要な部分を引用させていただこうかと思います。
『一、国籍は人権保障や公的資格付与・公的給付などで大切である一方で、父母の婚姻は子が自分で変えることができない以上、その合理性は慎重に検討しなければならない。
二、3条の規定は血統主義(日本人の子に日本国籍を与える原則)の補完であるが、その趣旨は出生後に父が認知すれば、日本人と生活が一体になり、それなら日本国籍を認めることがいいだろうということにある。その生活の一体性を判断するために要件を設けたのだから、その目的は合理的と言っていい。
三、国籍法3条ができた当時は、認知に限らず、婚姻ではじめて密接な結び付きがあるという判断は合理的なものであったといえるであろう。しかし、家族生活や親子に関する意識も一様ではなくなってきているし、国際交流の増大で日本人の父とそうでない母との間の子が増加している。その実態や意識でも複雑多様で、婚姻をもってはじめて国籍を与えられるほどの結びつきが認められるという判断は必ずしも実態と合致しない。
四、諸外国においても、法律ができた後非嫡出子と嫡出子の区別は解消の方向であり、国際人権規約や児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)でも差別が禁止されている。
五、国籍法の規定は出生の時に嫡出子はもちろん、日本国民の父から胎児認知された非嫡出子や日本人の母の非嫡出子も国籍を取得できるというのに、日本国民の子でありながら出生後認知で父母が婚姻していないとなると国籍が取れないというのは著しい差別的取扱である。』
要するに、法律が成立した段階では合憲であったが、時代状況の変化のために、違憲状態になったという見解である。
この点については、先に示したHPから見ることの出来る判決文を読めばわかると思うが、確かに論理は通っているように見える。
しかしながら、私はあえて反対意見を書こうと思う。
もちろん、これは最高裁大法廷によって判決は確定しており、違憲であることは決定的であるのであり、反対意見を書いたところで意味があるかといわれれば、はっきり言って無い。
それを分かった上での意見であることを承知願いたい。
ところで私の意見は、大法廷で反対意見を述べていた三人の判事の意見を多く基とするものである。

かつて私は法律である以上、明確な判断基準を持たなければならないという趣旨で文章を書きました。
大法廷上での三人の判事も「国籍付与の条件をどう定めるかは,明確な基準により,出生時において,一律,かつ,可能な限り単一に取得されるべきことなどの要請を害しない範囲で,広い立法裁量にゆだねられているというべきである。」と言っており、これは私の思うところと一致する。
日本法における国籍は血統主義を採用しており、これは憲法に違反するところではない。ここには異議を挟む余地は無く、差別であるとの主張については意味を成さない。
しかしながら、嫡出子および非嫡出子間にある差別、国籍を持つものと持たないものとの間にある差別が問題視されている。
ここにおいて、違憲判断された家族生活の多様化や意識の変化について考えたい。
大法廷の反対意見の中に以下の一節がある。
「しかしながら,家族生活や親子関係に関するある程度の意識の変化があることは事実としても,それがどのような内容,程度のものか,国民一般の意識として大きな変化があったかは,具体的に明らかとはいえない。
実態の変化についても,家族の生活状況に顕著な変化があるとは思われないし,また,統計によれば,非嫡出子の出生数は,国籍法3条1項立法の翌年である昭和60年において1万4168人(1.0%),平成15年において2万1634人(1.9%)であり,日本国民を父とし,外国人を母とする子の出生数は,統計の得られる昭和62年において5538人,平成15年において1万2690人であ
り,増加はしているものの,その程度はわずかである。
このように,約20年の間における非嫡出子の増加が上記の程度であることは,多数意見の指摘と異なり,少なくとも,子を含む場合の家族関係の在り方については,国民一般の意識に大きな変化がないことの証左と見ることも十分可能である。」
このように具体的な数字を提示しているのは反対派のほうなのである。しかも、その示すところは非常に安定している。
「このように,約20年の間における非嫡出子の増加が上記の程度であることは,多数意見の指摘と異なり,少なくとも,子を含む場合の家族関係の在り方については,国民一般の意識に大きな変化がないことの証左と見ることも十分可能である。
確かに,諸外国においては,西欧諸国を中心として,非準正子についても国籍取得を認める立法例が多くなったことは事実である。しかし,これらの諸国においては,その歴史的,地理的状況から国際結婚が多いようにうかがえ,かつ,欧州連合(EU)などの地域的な統合が推進,拡大されているなどの事情がある。また,非嫡出子の数も,30%を超える国が多数に上り,少ない国でも10%を超えているようにうかがわれるなど,我が国とは様々な面で社会の状況に大きな違いがある。
なお,国籍法3条1項立法当時,これらの国の法制が立法政策としての相当性については参考とされたものの,憲法適合性を考える上で参考とされたようにはうかがえない。このようなことからすれば,これらの諸国の動向を直ちに我が国における憲法適合性の判断の考慮事情とすることは相当でないと考える。」
ここに示された考え方が妥当であるか、これについては考慮に値するだろう。
統計上の数字を見れば明らかに、日本という国内においてはその統一性が保たれていると考えられる、これについては他にも根拠を示すことが出来る。
NHK放送文化研究所が継続的に実施してきた「日本人の意識構造」と題された社会調査である。
これは大澤真幸著の「不可能性の時代」に書かれていたことなのであるが、この調査は1973年より5年おきに16歳以上の日本人を対象にしたものである。
この調査では、生年によって六つのグループに分けており、それぞれ戦争世代、第一次戦後、団塊、新人類、団塊ジュニア、新人類ジュニアと分けられている。
ここでは「伝統志向ー伝統離脱」「遊び志向ーまじめ志向」をそれぞれ表す二つの軸を直交させた平面の上に各世代の「意識」を配置すると、意外なことに世代間ギャップはだんだんと小さくなっているという。つまり、社会意識の変化の速度は次第に鈍化しており、意識の多様度も小さくなっているというのだ。
ただし、このことには注釈があり、「基本的価値」「経済・社会・文化」「家族・男女関係」「政治」の4つの類型で区分けをすると「家族・男女関係」に関する意識が群を抜いてたかい変化をしているという点である。
とくに変化率が大きかったのは、「理想の家庭像」を問う質問項目で、性的分業意識が低下し、性的に平等であるべきであるという考え方が頒布してきているというのである。
もちろん、意識変化という点に絞って考えれば、その変化率は鈍化しているのであって、もっとも大きく変化している男女関係についても、外国人との交際にあっては、反対意見を呈した判事らの主張するデータのとおり、国籍法に絡んでくると思われる部分において、その変化は微弱だといえるということが明らかなのである。

母が日本国籍である場合と、父が日本国籍である場合の差について、それを差別として認定するかどうかの話も出ていたが、これは以前私も主張したように、母親を取り違えるということは基本的にありえないのであって、子供とのつながりの深さというものは明白であるという点をかんがみて、差別に値するというほどに、父と母との関係に差が無いのだという主張は妥当ではない、そう思う。
この点についても、三判事の意見と合致すると思う。

また、今回の判決にあるように、この条文が違憲であると仮定したとしても、やはり上告は棄却されるべきであったと思う。
これについては三判事のほか、違憲判決については賛成をしながらも、国籍付与については反対した2名の判事とも意見が通ずるものと思う。
というのも、日本国においては三権分立の考えの中、最近の記事にも書いたような気がするのでは有りますが、司法の力が大きくなりすぎないように違憲審査は裁判上で争われる範囲の中でしか行わないという原則があるのと同様に、いわば立法過程にかかわるような判断を示すべきではないというのが一般的な司法制度論の議論になります。
ここにおいて、この国籍法第三条を違憲であると判断し、その条文の無効を宣言したとして、それでは原告の求める国籍付与についてはいかなる法令を根拠とすればいいのであろうかという問題が浮上してくる。
今回の場合、国籍付与について裁判で争われていたパターンに対する類型が法律上のどこにも規定がされていないのであって、三条を無効としたとしても、原告に国籍付与をする根拠が無いのである。
ここにおいて、原告に日本国籍を付与するという効力を持った判決を下すということは、司法の側が立法を行うことと等しいと言え、これは憲法上にある立法機関としての唯一の機関たる国会の権限を侵すものになりかねない。
当然であるが、民事裁判に該当するため(正確には行政裁判なのかもしれないが、行政裁判の多くは民事裁判の類型で対処が可能なので、そのように考えるものとする)、条文の適用については類推解釈という手法を取り入れることが可能であって、今回の判決は、三条の中でも違憲と判断できる部分についての規定を取り外し、拡大解釈をするという立場を取って日本国籍の取得を認めるように判決を下している。
しかしながら、反対意見としてあるように、この三条については「準正子(胎児認知ではなく出生後認知により日本国籍の父親に認知され(母親は外国国籍)、後にその父親と母親が法的関係における婚姻が成立した場合に得られる、子供の立場であって、嫡出子たる身分を取得するとされる)」についての規定であり、違憲と判断される部分を除いて考えたとしても、原告のように「非準正子」に適用することは条文解釈上無理があると思われる。
この準正と非準正の違いを削除するように考える場合、反対意見にあるように「認知を受けた子全般に同項の効果を及ぼそうとするもののようにうかがえる」ものであるし、「認知を受けたことが前提になるからといって,準正子に係る部分を取り除けば,同項の主体が認知を受けた子全般に拡大するということにはいかにも無理がある。また,そのような拡大をすることは,条文の用語や趣旨の解釈の域を越えて国籍を付与するものであることは明らかであり,どのように説明しようとも,国籍法が現に定めていない国籍付与を認めるものであって,実質的には立法措置であるといわざるを得ない」という考えが成立するのも十分に頷けるものである。

つまりだ、今回の判決は日本の司法制度を鑑みるに当たって立法過程に関する影響力が強すぎる。そして、そのために、日本国の原則が揺らぐ前例となりかねないのではないだろうかという危惧を抱かせるというのは極論であろうか。
最近、長崎市長選にて候補者の射殺事件について、死刑判決が出ている。
被害者が一人であるという状況において、死刑判決が出るということはこれまでほとんど無い事例であった。
このような司法の変遷を伺うに、日本の司法制度は大きな転換期に入っていると思われる。
裁判員制度の導入にしても然りではあるが、この大きな流れに対し、注意深い視線をもって観察していかねばなるまい。
特に、世論の反映という点をいささか重視しすぎているきらいがあるのではないだろうか。
ともすれば、司法のみならず法体系そのものの安定性を揺るがしかねないような、そんな不安定な風が吹いてきている、そのように感じるのは、私の感覚が古いからであろうか。
いずれにしても、この問題、違憲判決賛成側の論点の具体的根拠が乏しかったように思える。
これは、TV番組のニュース枠がかつてと比べ、増えたことに起因するのではないだろうか(放送局の増加も絡んでいる)
重大な犯罪の増加が騒がれているが、そのような事実が統計上にあるわけではなく、報道時間の増加が、これまでは報道されていなかったような事件まで報道することを可能にしているということだ。
先ほどにも示したとおり、国民の意識変化は次第に鈍化している。これはニュース報道などのメディアの露出が増えたおかげで、意識変化が取り上げられる機会が増え、我々の認識では意識変化が激化していると、ともすれば考えがちで有るのとはまったく正反対の結果である。
今回の判断基準となった観念についても同じような原因が伺えそうである。
つまりは、実態に即していない、観念論を振り回してもらっては困るというものである。


しかし、このように書いていると自分の凡庸さというものが身にしみて分かりますね^^;
やっていることの多くは他人の意見を盾にした正当化であるといえます。
しかも、その反論にあげている論点がいずれも非常にオーソドックスであるという点。
無難では有りますが、オーソドックスに過ぎると発展しない。ノーマルからの転換が発想の上では重要なファクターであるのにもかかわらず、である。
本日の大学で受けた基礎ゼミには、ゲスト参加として院生がいるのですが、授業後に私たち学部生と院生が会話をするというシーンは珍しくありません。
そこにおいて、本日院生の方がおっしゃっていたことなのですが、「学部生は知識が少ない(マルクスの資本論を題材にしているために、資本論に絡んだ知識量が足りている人のほうがむしろ異常なのですが)がゆえに、自由な発想が出来ていて、その直感的な指摘が案外鋭い」という評価をなさっていました。
「院生のゼミになると、文献を重視する傾向が強く、自ら思ったことを口にしづらいという傾向が有るけれど、学部生のゼミにはそれが無いがゆえの面白さと鋭さがあり、院生として見習わなければならない面がある」ということでした。
多少のリップサービスがあるのかもしれませんが、一面の真理なのではないかと思います。
そこにくると、私が行うことは、レポートにしてもブログの私見にしても、知識を基にしようという傾向が強く、そのために発想力に鈍さがあるのではないかと思われてしまう点は否めない。
時間がかかる割りに、出来上がる作品には面白みが無い、というわけだ。
もちろん、これから先、ますます知識を仕入れていかなければならなくなるのは必死のことであり、またそうあるべきだとも思ってはいる。
しかしながら、知識を追いかけるばかりではなく、たまには待ってみる、あるいは知識から逃げてみるというのも一つの方法なのであろう。
もしかしたら、知識から逃げたら、却って知識が追いかけてくるかもしれない。仮にそうであるのだとしたら面白いではないか。
やってみる価値は十分あるかもしれない。知識の吸収に疲れたら、突然あさっての方向を歩くのも気分転換になろう。
ならば、こう宣言しよう。
私は、今、ここにいる。そして歩いていこう。
付いてくるなら付いてくるが良い。私は逃げるが、それは拒絶ではない。
むしろ積極的な受容である。そう、私は待っているのだ。
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