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ちょっと真面目に憲法9条を考えてみる

なんだかんだ最近話題に事欠かない集団的自衛権。
これについて、手元にある書籍を参考にしつつ、ちょっと真面目に考えてみようかと思いまして、執筆することにしました。

手元にある書籍は以下の三冊

芦部信喜著、高橋和之補訂『憲法(第五版)』(2011)
佐藤幸治著『日本国憲法論』(2011)
大石眞著『憲法講義I第2版』(2004)

ちょっと古い書籍も混ざっていますが、どれも憲法の教授が執筆した基本書に分類されるもので、特定の分野に特化したのではなく憲法一般を網羅的に記した書籍と言うことになります。

では、これらを手元に、憲法9条を考えてみます。



1.憲法9条の構造と論点整理


憲法9条の条文は以下のようになっています。

 第1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 第2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

まず第1項を国語的に分解してみます。比較的大きめのブロックで分けますと、以下のようになることがわかります。

日本国憲法は (主語)
正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し (修飾部)
国権の発動たる戦争 (目的部)
武力による威嚇又は武力の行使 (目的部)
国際紛争を解決する手段としては (修飾部)
永久にこれを放棄する (述部)

ひとまず、修飾部は、中身を明確にするための言葉なので、いったん外して考えますと、「国権の発動たる戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」を放棄するというのが分かります。
そこで、「国権の発動たる戦争」の意味、「武力による威嚇又は武力の行使」の意味は何か、と言うのを考える必要が出てきます。

次に修飾部ですが、これがどんな問題になるのかと言うと、「どこを修飾しているのか」と言う点です。
ただし、一般的に「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の部分が何を修飾しているかというのが議論の対象になることはないと言っていいでしょう。と言うのも、どこに修飾しようが、そのことで条文の意味内容に変化があるとはいえないためです。そこで、「国際紛争を解決する手段としては」がどこに係るかを考える事になります。

では、第2項を読んでみましょう。

前項の目的を達するため (接続部)
陸海空軍その他の戦力 (目的部)
これを保持しない (述部)
国の交戦権 (目的部)
これを認めない (述部)

主語がないですが、たぶん「日本国民」でしょう。
目的部について、意味を考える必要があると思われるのは「交戦権」だと思います。もちろん、「戦力」ってなんなのかと言うのも明確にすべき問題にはなりうるのですが、ちょっと考えたら分かりますが、現在「実力」とされている自衛隊が、どれだけの戦力増強をしたら「戦力」になるのかなんて、程度問題でしかなく、明確な基準なんて作れるはずがないじゃないか、という反論に対して、明確な再反論は困難であり、その部分に字数を割くのは止めておきます。
それよりも接続部が重点論点となります。と言うのも「ため」という言葉には「原因・理由」という意味と「目的や期待の向かうところ」という意味が認められるため、原因があるから戦力を保持しないのか、戦力を保持しないことで前項の目的に向かっているのか、という文理解釈に二通り考えられることになるのです。

以上の点を順番に考えてみましょう。


2.9条1項の解釈

(1)国権の発動たる戦争の意味とは

芦部憲法によると「『国権の発動たる戦争』とは、単に戦争と言うのと同じ意味である。『戦争』は、宣戦布告または最後通牒(括弧書き省略)によって戦意が表明され、戦時国際法規の適用を受けるものを言う。」とされる。
「国権の発動たる」という表現がされていること、またこの芦部憲法での解説を読んでも分かるが、「自分から戦争をする」という形における戦争を指していると考えるのが自然であり、即ち「否応なく巻き込まれた戦争」、例えば攻め込まれた場合や、隣国で起きた戦争で当事者同士の軍隊の小競り合いの結果、自国にまでやってきた場合、とかそういう戦争以外のものを指している。

(2)武力による威嚇又は武力の行使の意味とは

これも芦部憲法を読むと「『武力の行使』とは、そういう宣戦布告なしで行われる事実上の戦争、すなわち実質的意味の戦争のことである」「『武力による威嚇』とは、(中略)武力を背景にして自国の主張を相手国に強要することである。」としています。
これを読むと「武力の行使」も戦争を指しているのであって、この意味で、両者を区別して使うことに意味はない、と言うことも考えられます。
当然、その意味で、「国権の発動たる戦争」と「武力の行使」の区別を特にしないまま、9条1項を解釈するという立場も当然ありえます。ただし、佐藤憲法では9条の文理解釈としてB説と分類した考え方に対する批判として「『戦争』と『武力の行使』との区別が実際上困難である」という表現が用いられており、戦争とは区別したものとして捉えることも考えられる、と言うべきだと思われます。

(3)国際紛争を解決する手段としてはの修飾部分、及びその意味

国際紛争を解決する手段としては、と言う部分がどこを修飾しているのか、と言う問題について詳しいのは佐藤憲法です。
佐藤憲法では

・「国権の発動たる戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」の両方を修飾している(A説)
・「武力による威嚇又は武力の行使」のみを修飾している(B説)

という解説がされています。これについては佐藤憲法では「ところで、日本国憲法の英訳文(the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes)をみると、むしろB説のように解するのが妥当なように思われる(括弧書き省略)。これによれば、およそ「戦争」はすべて放棄したことになり、そして、「国際紛争を解決する手段として」の「武力による威嚇又は武力の行使」も放棄することになる。したがって、不法に侵入した外国文体を排除するため武力を行使することは、本条によっては禁止されないことになる。」と書かれています。

このようにB説によった場合には基本的には「自衛権」を否定する論理にはならないと言うことになっています。A説では「国際紛争を解決する手段として」の意味内容で争いがあるにもかかわらず、B説ではこの点に争いがあるように書かれていないのは不思議ですが、まぁ、この部分はA説を考えながらで良いと思っておきましょう。

佐藤憲法には「A説は、このように『戦争』と『武力による威嚇又は武力の行使』とを一体的に捉えるが、次の点で決定的に分かれる。すなわち、9条1項は『国際紛争を解決する手段としての戦争』(括弧書き省略)、つまり侵略のための戦争のみを放棄したと解する説(A1説)と、そのような侵略戦争のみならず、自衛のための戦争(および制裁戦争)をも放棄したとする説(A2説)とである。」とされている。
この点について芦部憲法によると「従来の国際法上の通常の用語例(たとえば不戦条約一条参照)によると、『国際紛争を解決する手段としての戦争』とは「国家の政策の手段としての戦争』と同じ意味であり、具体的には、侵略戦争を意味する。このような国際法上の用例を尊重するならば、九条一項で放棄されているのは侵略戦争であり、自衛戦争は放棄されていないと解されることになる。これに対して、従来の国際法上の解釈にとらわれずに、およそ戦争は全て国際紛争を解決する手段としてなされるのであるから、一項において自衛戦争も含めて全ての戦争が放棄されていると解すべきであると説く見解もある」という記述と一致すると考えて良いだろう。


(4)9条1項の解釈のまとめ

9条1項は文章構造から明らかなように、述部において「放棄している」のだから、「何を放棄したのか」と言うのが核心である。
それについては、上述の通り、「侵略戦争を放棄したのであって自衛戦争は放棄していない」という考え方と「自衛戦争を含めて放棄したのだ」という2つの考え方ができることがわかる。


3.9条2項の解釈

(1)「前項の目的を達するため」とは

既に言及したように、「ため」と言う言葉には「原因・理由」という意味や「目的や期待の向かうところ」という意味がある。
これはつまり、「前項の目的を達する」という「原因・理由」があり、そのための戦力を保持しないという読み方と、戦力を保持しないことによって「前項の目的を達する」という目的や期待に向かうという読み方の2種類があるということである。

後者の読み方をすれば、戦力の不保持は絶対的なものであり、前項の目的がなんであるかにかかわらず、戦力保持はできないことになりますが、前者の読み方をした場合には、前項の目的を達することとは関係がないのであれば戦力を保持する可能性を残すことになります。

芦部憲法によると「二項について、『前項の目的を達するため』に言う『前項の目的』とは、戦争を放棄するにいたった動機を一般的にさすにとどまると解し、二項では、一切の戦力の保持が禁止され、交戦権も否認されていると解釈すれば、自衛のための戦争を行うことはできず、結局全ての戦争が禁止されることになる(中略)ただし(中略)二項については、『前項の目的を達するため』とは『侵略戦争放棄という目的を達するため』ということであり、したがって、二項は、侵略戦争のための戦力は保持しないとの意であり、また交戦権の否認は交戦国がもつ諸権利は認めないとの意を述べるにとどまると解する説もある」となっており、概ね上述の二つの読み方に対応している。

(2)交戦権の意味

交戦権と言うと一般に「戦いをする権利」という意味だと思いがちである。
しかし、この言葉には国際法上の用例が存在しており、芦辺憲法によると「交戦状態に入った場合に交戦国に国際法上認められる権利(たとえば、敵国の兵力・軍事施設を殺傷・破壊したり、相手国の領土を占領したり、中立国の船舶を臨検し敵性船舶を拿捕する権利)」とされており、大石憲法でも「国際法上『交戦団体』として認められたときに行使することを認められる各種の権利の総体」と解説される。
そうすると、ここにいう交戦権とは、国権の発動たる戦争において交戦国に認められる権利と考えるのが素直だということになる。

(3)2項のまとめ

以上のように考えると、9条2項は9条1項を受けて、以下のように場合わけして考えることができる。


・9条1項で自衛戦争も放棄したと考える場合→およそあらゆる戦争を放棄しているので、戦力に該当する組織は一切もつことは許されないし、交戦権は当然否定される

・9条1項で自衛権を否定しない場合

 ・「前項の目的を達するため」における「ため」とは「目的や期待の向かうところ」という意味で考える→戦力を一切持たないことで前項の目的を達成しようとするものであり、結局自衛戦争をするための戦力も持つことができず、交戦権も否定される

 ・「前項の目的を達するため」における「ため」とは「原因・理由」という意味で考える→侵略戦争を放棄するという目的を達成するための戦力放棄であるのであって、自衛戦争のための戦力を保持することまでも禁止するものではなく、交戦権の放棄についても、自衛戦争として「交戦国」となった場合にはその限りで認められる。


芦部憲法によると9条1項によって自衛権は否定されないが、結局のところ2項によって戦力の保持が禁止されているので、自衛戦争はできないとするのが「通説」であると書かれている。
これに対し、佐藤憲法は国際法的用例や、マッカーサー・ノート第2原則から現行規定への変遷などを下に、9条1項は自衛権が放棄されていないと考えるのが妥当とした上で、自衛戦争は放棄されていないとするのが本筋だと書いている。
また、大石憲法では「現行憲法は、少なくとも自衛のための武力行使、したがって、そのための武力の保持を禁止していない、と解すべきであろう」と書かれている。


4.自衛隊は合憲なのか

上述のように芦部憲法が解くような「戦力の一切の不保持」を主張する場合、自衛隊は違憲となる公算が高い。
このことは芦部憲法においても「現在の自衛隊は、その人員・装備・編成等の実態に即して判断すると、九条二項の『戦力』に該当すると言わざるをえないであろう」と記述されていることからも分かる。
当然だが、憲法9条が「自衛権」そのものをも否定していると考えるのであれば、自衛隊は言語道断に違憲だろう。

これに対し、佐藤憲法が本筋だといい、大石憲法でも主張されるような「自衛戦争は否定されておらず、そのための戦力の保持は可能である」という見解に立った場合には自衛隊は合憲ということも考えることができる。

ただし、ここからは私のもっている書籍には載っていない純粋な「私の疑問」なのであるが、ドイツの憲法であるドイツ共和国基本法も、アメリカ憲法も、軍隊組織については条文上明確にその存在を規定し、その指揮権限の所在を明らかにしているという特徴がある。
憲法を国際比較法的に見た場合には、所謂軍隊組織に該当するような存在に対しては、その組織法の根本規範として憲法上の根拠規定が必要になるのではないだろうか、という疑問は一応提出することは可能なのかもしれない。
これは、憲法96条において憲法の改正手続に関する条文があるが、それを実際に実行するための「国民投票法」に該当する法律が存在していなかったために、長らく憲法改正が事実上不可能であったように、憲法内に軍隊組織に関する条文が存在しないために、軍隊組織を構築することが憲法上禁じられている、と解釈する可能性が出てくるのではないだろうか、ということである。
この場合、組織法としての規範が存在しないがために、軍隊組織の形成・運用ができないという結論を導き出すことになる。
自衛権・自衛戦争は憲法上認められているにもかかわらず、軍隊組織の形成・運用が否定されるという極めてナンセンスな憲法であるということになるのであるが、実際問題として、そのような組織の形成運用について、憲法上の根拠なく法律レベルで規定していることは、国際的に見ると異例なことのように思えるのである。


5.集団的自衛権の問題

集団的自衛権については、現在まさに国会においても議論となっているが、これについても丁寧に整理して考える必要がある。
9条の解釈をみてきたが、これを順序としてみていくと日本国憲法は「自衛権を認めているか(9条1項)」という問題があって、その次に「自衛権をどのように行使できるか(9条2項)」という問題があった。
自衛権を認めていないと考えるのであれば、自衛権を行使することはありえないし、自衛権を認めているとしたとしても、それを行使することができないのであれば、事実上自衛権を持っていないのと同じである。
これまでの9条の解釈を前提とすれば、集団的自衛権が認められるかどうかは、憲法が自衛権を否定しておらず、自衛のための戦力の保持ができると考えた上で、さらに集団的自衛権を認めているかどうか、認めている場合にその行使が可能かどうか、という点を見ていく必要がある。

これについて、芦部憲法ではそもそも自衛のための戦力保持は禁止されていると解するのが通説だとしており、集団的自衛権についても「自衛権には、個別的自衛権と国連憲章で新しく認められた集団的自衛権の二つがあるが、後者は、他国に対する武力攻撃を、自国の実態的権利が侵されなくても、平和と安全に関する一般的利益に基づいて援助するために防衛行動を取る権利であり、日本国憲法の下では認められない」と、当然に認められていないという立場を取っている。

しかし、佐藤憲法では「国連憲章51条に、『安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない』とあり、日本国の独立を認めたサンフランシスコ平和条約5条(c)も『日本国が主権国として国際連合検証第51条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有する』ことを明確にしている。
 上にみたように、個別的自衛権についても議論のある中、集団的自衛権については学説は一般的に否定的であるように見える。この点、政府は主権国家として当然に集団的自衛権を有するとしつつも、その行使は憲法の許容する自衛権の範囲を超えるもので認められないという立場を持してきた(括弧書き省略)。ただ、日本を取り巻く国際環境の変化とも関係して、集団的自衛権の行使が認められないとする根拠は何か、集団的自衛権の行使と言っても様々な次元があるのではないか、を問う意見も強くなってきているかにみえる。』と解釈上集団的自衛権が認められないと、100%言い切ることはできないのではないかという点を示唆するような記述をしている。

これについてより踏み込んでいるのは大石憲法である。大石憲法でも国連憲章やサンフランシスコ平和条約を前提に、「日本国としても、こうした集団的自衛権を認め、これを有するという前提に立たざるを得ないことになろう。」と集団的自衛権を保有していることに関しては当然のこととして認める必要性を指摘している。そして、日本国憲法上の位置づけとして、その行使の可否については当時の政府見解や学説上の通説的立場について否定的に解していると紹介しつつ、「しかしながら、そのように集団的自衛権の行使が認められないとする根拠は、必ずしも明らかでない。というのも、そもそも、自衛権の範囲を超えることを根拠と刷る議論に対しては、結局のところ、個別的自衛権に関する考え方を集団的自衛権の中に持ち込んでいるに過ぎないのではないかという疑問を消し去ることができないからである(大石『日本国憲法と集団的自衛権』ジュリスト一三四三号参照)。」と疑問を呈している。
手元にはこのジュリスト文献がないので、確認することはできないのが残念でならない。


以上のような議論を見ると、まず第一点として、日本国に集団的自衛権が認められるかどうかについては、このように考えることができるといえる。

まず、9条1項において放棄された戦争や武力の行使等が侵略戦争を指し、自衛権が放棄されていないという解釈に立つとする場合に、なお集団的自衛権は除外するとすれば、その根拠はなんなのかという問題点がある、ということである。国連憲章を代表とする国際法上は、主権国家が持つ自然権として集団的自衛権は観念されているとするのであれば、本来この権利を制約するのであれば憲法で放棄されていると解釈しなければならないはずであり、個別的自衛権と集団的自衛権を分離して個別的自衛権のみ憲法9条1項で留保されているのだと解釈するのは無理があるといわなければならない。

そして次に、日本国が集団的自衛権を有しているとした場合に、これの行使ができるかどうかが問題となるが、大石教授の意見自体は中でも急進的と評価できるとしても、佐藤教授の基本書に言及があるように、行使ができないとする場合の根拠等を精査する必要があることは間違いないといえるだろう。
実際に、9条2項の解釈において、「侵略戦争放棄という目的を達成するために、戦力保持を禁止しているのであり、自衛戦争のための戦力保持は禁止されておらず、交戦権の否定についても、その限度において放棄したのみである」という解釈に立つのであれば、集団的自衛権を否定していないという立場を取ったとき、集団的自衛権行使が否定される根拠は曖昧なものになるといえる。
もちろん、専門家の詳細な研究によって、この部分が明らかになっているのかもしれないが、少なくとも2004年及び2011年に記された書籍にはこの専門的な領域までは踏み込むことはできない状態にある。

実際に国際比較としてドイツ基本法やアメリカ憲法を読んでみると、国防に関する、個別的自衛権行使における条文を発見することは容易である。しかし、少なくとも私が見た限りでは、両憲法とも、集団的自衛権について明示的に示した条文は見つけられなかった。しかし、両国とも集団的自衛権の行使はできると解釈されており、条文がなければ行使できない、という手合いでもないと思われるのである。


結論として、これら考察からすると、集団的自衛権行使容認が、少なくとも学生レベルで学習する範囲において、明確に違憲であると断ずることは困難だということができる。もちろん違憲だと考えることも可能だが、上述の通り、個別的自衛権の行使そのものが違憲であるという考え方から付随して集団的自衛権行使が違憲であるという論理を追うパターンが多いと認められる。


6.木村草太准教授の憲法論を見る

ネット上で詳しく読むことができる集団的自衛権の話に以下のものがある。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150616-00000008-wordleaf-pol&p=1
これを、これまで見てきた憲法の知識を前提に読んでみよう。

この文章では以下のような記述がまず目に入る。

「日本国憲法では、憲法9条1項で戦争・武力行使が禁じられ、9条2項では「軍」の編成と「戦力」不保持が規定される。このため、外国政府への武力行使は原則として違憲であり、例外的に外国政府への武力行使をしようとするなら、9条の例外を認めるための根拠となる規定を示す必要がある。」

この時点で、既に疑問だらけである。そもそも9条の解釈をした段階において、9条1項は自衛権を否定していないという解釈は存在したし、2項で自衛戦力を保持し自衛戦争をすることができるという解釈だって存在した。
自衛戦争違憲論であった芦部憲法でさえ、9条1項において自衛権は否定していないという立場(それに加えて戦力保持が禁止される結果として自衛権行使が不可能であるとする立場)が「通説」であると書いているのであり、緒論あることを一応認めている。
しかも、急進的な大石憲法を除いたとしても、佐藤憲法においても「自衛のための戦力保持は認められる」というのが本筋だという議論もあるのであって、少なくとも、9条があるから「外国政府への武力行使は原則として違憲」ということにはならない。
「9条の例外を認めるための根拠となる規定を示す必要がある」という論理を成立させるためには、少なくとも2項において戦力の一切の不保持という立場に立つ必要があるのであって、この時点で教科書レベルの学説の一つを無視していることが分かる。

木村憲法では、この後、行政権や幸福追求権を基礎に個別的自衛権行使容認のロジックを立てているが、これは、9条が原則として個別的自衛権行使を制限しているという前提に立つものであり、極めてアクロバティックな論理展開である。
少なくとも基本書的ではないことが分かる。

次に集団的自衛権合憲論者たちの論拠という項目がある。
これを見ていくと、

「第一に、合憲論者は、しばしば、「憲法に集団的自衛権の規定がない」から、合憲だという。つまり、禁止と書いてないから合憲という論理だ。一部の憲法学者も、この論理で合憲説を唱えたことがある。しかし、先に述べたとおり、憲法9条には、武力行使やそのため戦力保有は禁止だと書いてある。いかなる名目であれ、「武力行使」一般が原則として禁止されているのだ。合憲論を唱えるなら、例外を認める条文を積極的に提示せねばならない。「憲法に集団的自衛権の規定がない」ことは、むしろ、違憲の理由だ。」

とある。これの反論にも「憲法9条には、武力行使やそのため戦力保有は禁止だと書いてある。いかなる名目であれ、「武力行使」一般が原則として禁止されているのだ」という文言を使っている。先ほども指摘したように、9条の解釈そのものにおいて自衛戦争を否定していないのだと考えると、国際法上国家の自然権として認められている集団的自衛権を制限したものだという解釈をどうやってひねり出すのか、という問題が残る。やはりここでも「一つ学説」を意図的に握りつぶしているのではないかと疑いを持つことになる。

このことは

「第二に、合憲論者は、国際法で集団的自衛権が認められているのだから、その行使は合憲だという。昨年5月にまとめられた安保法制懇の報告書も、そのような論理を採用している。しかし、集団的自衛権の行使は、国際法上の義務ではない。つまり、集団的自衛権の行使を自国の憲法で制約することは、国際法上、当然合法である。国際法が集団的自衛権の行使を許容していることは、日本国憲法の下でそれが許容されることの根拠にはなりえない。」

という部分にも現れている。「集団的自衛権の行使を自国の憲法で制約すること」が合法なのは正しいが、「日本国憲法が制約をしているかどうか」の議論を無視している。9条が自衛権を放棄せず、そのための戦力保持を禁止していないのであれば、集団的自衛権だけを縛っているというのは飛躍があるのであり、この立場から考えたら、日本国憲法が制約しているとする根拠を提示しない限り、集団的自衛権を制約していないというのは当然ありうる論法のはずだ。

第三の「他衛」か「自衛」かという論点は今回の9条の解釈からは出てこない話であり、少なくとも本記事の内容から判断することは難しい。第四の砂川事件判決も、本記事では取り上げていない。
個人的な見解を申し上げると、第三の点は「論理におかしなところがある」と思っていますが、第四の点は「その通り」だと思っています。

これ以降の文章は、安保法案の中身そのものについての議論になっており、本記事の内容だけでどうこう言えるレベルを超えていますが、ここまで読んでみると、この木村憲法の論理、摩訶不思議である。
少なくとも、「これだけは憲法学者として断言しよう。『個別的自衛権の範囲を超えた集団的自衛権の行使は違憲です。』」と断言できてしまうのは何故なのか、疑問は尽きないといえる。



終わりに

違憲だ合憲だ、という議論には、少なくとも、こういう知識を背景にする必要があるというところを示せたかと思います。
個人的には、学者である人間が「断言」しているのが、ものすごく恐ろしいことに思っています。
というのも、専門家の言うことというのは、それだけで権威付けされるものだからです。
私も専門分野ではない領域について、詳しく調べることは困難がありますから、やはり専門家の意見というのはその意味で大きな判断材料とせざるをえません。
今回の問題で言えば、木村准教授は9条そのものの解釈を行うことなく、9条において提唱されるある一定の説を完全に無視しながら、断言している、というように見えるわけであります。これは、何も知らない人からしてみれば、一種の洗脳に近い、間違った知識を受け付ける可能性を持つ、極めて危険な行為だと思うのです。

もちろん、憲法の学者といえども、人権論を専門的に研究しており、9条や行政組織論といった分野は必ずしも専門ではないという先生は多くいらっしゃいますし、そのような人たちが9条においておかしな議論を展開し、それが基本書に多数説とか通説という形で掲載されることは、ある、というのが現状だと聞いたことがあります。
つまり、木村准教授は9条において専門でも、佐藤教授や大石教授がそうではなく、それゆえに基本書と見解が異なっている、という可能性は否定できるものではありません。
しかしながら、何の説明もなく、いきなり特定の論理を無視した議論は、それ自体やはり危険だと私は思います。ページ数などの問題があったのかもしれませんが、9条に関する議論は、「司法試験の短答式問題に出る」レベルの議論をちょっと詳しくしたのが本記事なので、これを無視した論理展開は、個人的な印象としては木村准教授の独自説なのではないか、というものです。

集団的自衛権行使容認は違憲だ、合憲だ、という話が、裏側にどのような理論を持っているのか、そういうのが伝われば、と思い、本記事を占めさせていただこうと思います。
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[61]

多分、木村先生は東京学派なので解釈に歴史と自然権を入れれるので京都学派から見ればアクロバチックに見える解釈をしているのだと思います。

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