admin⇒

日記的空間

主に、私見のために使用するスペースです。 所々、日記的に気ままに書いたりと、アトランダムな使用をしていきます。

 | ~home~ | 

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

詰将棋ルール論:変同余詰について(補論)

前回までの記事では変同余詰めについて基本的な定義づけから議論をしてきた。
その中で一通りの議論はできたと考えているが、その際に見落として遺漏していた部分や議論の流れの関係で出てこなかった議論を補完しようと思う。

1.変同余詰は不完全であると考える場合の理論的根拠補足

変同余詰は不完全であると考える議論の理論的根拠には前回の記事で書いたもののほかに以下のような論理経過を辿って主張することも考えられます。

この考え方は詰将棋のルールに対する一種の考察を基礎に置くものです。
詰将棋のルールにおいては攻方着手決定ルールは「詰むように王手をかけること」だけとなっている。
このことは「最古の詰将棋『象戯作物』からもわかるように、当初は終盤の訓練問題として発展してきた歴史を持つ詰将棋にとって、詰むことが何よりも重要であって、その手順はどのようなものであっても関係ない」のであると考えることもできる。
しかし、一方で『象戯作物』の頃から余詰はなかったとされている(ネット上では「詰将棋博物館」というサイトで言及されている)。すなわち、余詰不完全の原則が詰将棋における根本として密接不可分のルールであると考えるのであれば、詰将棋において、攻方の着手はそもそも一意に決定できることになる。
つまり、余詰不完全の原則が根幹にあることを基礎に考え、攻方着手に一意性があることを前提とすると、攻方着手決定ルールにおいて「詰むように王手をかける」というルール以外を設定することに意味がないということがわかるのである。
そうすると、詰将棋における攻方着手決定ルールは根底に解の一意性という基本理念があるという考え方をすることができるわけである。この考え方に基づけば、変同余詰は解の一意性から外れた存在であることになるため、不完全であるとして排除すべきという結論と整合的になるのです。
したがって、余詰不完全の原則をルールの根幹に据えるべきと考えると、変同余詰は余詰不完全の原則を拡張し、不完全であるという結論となる。


2.作意手順客観化論


これまでの記事(http://watakusimi.blog64.fc2.com/blog-entry-148.htmlおよびhttp://watakusimi.blog64.fc2.com/blog-entry-149.html)において、このブログでは「作者が意図した手順」すなわち作者が主観的に正解手順だと「思っている」に過ぎない手順を「作意手順」と定義し、「詰将棋のルール上、正解となる手順」を「本手順」と定義している。
これは「変化」や「紛れ」といった詰将棋とは切っても切れない用語の定義を行うために必要な用語の使い分けだと、私は考えている。
しかしながら、詰将棋には「完全性の議論」とも呼ぶべき議論の枠組みがあり、これが故に本質的に主観的に定義される「作意手順」が事実上「本手順」と同化する「客観化現象」が不可避的に発生すると言わざるを得ません。
これについて詳しく考えてみましょう。


まず、詰将棋の完全性の議論とはなんなのかというのを簡単に整理します。
詰将棋には「完全作」と「不完全作」という分類が存在しています。
詰将棋として認められるにはルール上完全である必要があるのです。
しかし、この「完全かどうか」というのは難しい問題を孕んでおり、明確な定義が存在しているとは言えないのが現状です。
代表的なのは「無駄合議論」と呼ばれるものであり、詰将棋の完全性に帰着する議論として長らく定説と呼べるものが存在していない状況であったりします。※1
本稿ではこのような難しい議論にまでは踏み込むことなく、作意手順の客観化現象に必要な限度で完全性議論に触れていきます。

一般に詰将棋が不完全となる類型についてはhttp://watakusimi.blog64.fc2.com/blog-entry-149.html#9でも触れたとおり、「余詰」「駒余り」「不詰」の3つに大きく分類することができます。※2
本稿の作意手順客観化現象を要請するのは、このうち「余詰」の分類になります。
「余詰」に関してはすでにhttp://watakusimi.blog64.fc2.com/blog-entry-149.html#8において触れていますが、理屈の上では形式的余詰と実質的余詰に分解できると考えられます。
本稿においても、この二つの分類について深入りはしませんが、いずれにしても、詰将棋には「余詰不完全の原則」が存在しており、余詰が存在していれば不完全である、というのが基本となっています。
このとき、余詰の定義が形式的であっても実質的であっても、少なくとも「紛れが詰む」という要素を含みます。
本稿における完全性議論のポイントは、完全不完全を決定づける一つの要素である「余詰」とはその定義として「紛れが詰む」という要素を満たすという点なのです。

この、完全性の議論の要点を前提にすると、このブログにおいて「紛れ」の定義を「攻め方が作意とは違う手を選択した場合」としていることが今回の客観化現象が要求される最大の原因となることになります。
即ち、詰将棋が完全か不完全かという、客観性を要求される完全性の議論において、それを決定すべき要素の一部が作者の主観的要素を中心とした用語によって定義されることになるという逆説的な状況を生み出すということになるのである。
この結果として、作者の意図として設定されるべき作意手順について、ルールがいわば逆進性をもって作意を客観的に規律するという現象が発生するというのが、本稿にいうところの「客観化現象」なのである。


※7月28日追記

私は完全性は客観的に確定するべきであるという考え方に拘泥し、他の見方を見落としていましたので、その可能性を追記します。

詰将棋を一種の表現行為としてとらえるならば、作意決定を含めて作品とみるべきだ、との意見をいただきました。
確かに、表現行為として見るのであれば、作者が何を意図したのかまでも含めて一つの作品として完成するのであり、その視点に立てば、作意も含めて完全性を判定することはあってしかるべきです。
この考え方に立つ場合には、作意設定に失敗したために余詰が生じる場合などは、仮にほかの手順を作意に設定した場合に完全性が認められる場合であっても、「作意誤設定」による不完全作ということになり、本稿でいうところの作意客観化論の流れは不要ということになります。



3.作意手順客観化論、その内容とは


以上のように、ルールが逆進性を発揮すると考えた場合、いわば「客観的作意」ともいうべき修正された作意手順はどのように確定されることになるのであろうか。
これは以下のように考えられる。

・まず第一に、ルール上「本手順」を構成する手順である
・抽出した本手順の中から最短手数となるものを選ぶ
・それぞれの手順を基準にしたとき実質的意味の余詰となるような攻め方着手が存在しない変化手順を選ぶ

これをそれぞれルールの逆進性との関係でどのような位置づけになるのかを見ていく。

まず、「本手順」を構成する手順が第一に抽出されるのは、作意手順を本手順の中から選ぶことが創作において要求されるからである。
一般に作意手順が本手順を構成する手順とは異なる場合には、それは作意手順の設定を失敗しているということを意味しているのであり、その意味で、主観的に設定された作意手順は意味を持たないのである。
それゆえ、正しく作意が設定されているという前提のもとに作意手順を客観化するとこの基準による最初の絞りが発生することになるのである。

次に、最短手数を選ぶという基準である。
これは攻め方着手を絞り込むために利用する基準である。
変同手順を抽出するのみならず、客観的に余詰として不完全に分類されるような場合に、この次の基準で紛れにあたる部分も含めて選り分けてしまうと、以遠打非限定由来の余詰などが抜け落ちる可能性が出てくる。
そこで、あらかじめ、攻め方着手について余詰様の手順の存在を残しつつ絞りをかけておく必要があるのである。

そして、各本手順を基準にしてみたときに余詰となるような手順が存在しない変化手順を選ぶこと。
これは、作品が出題される以上、完全であるという推定が働くという点にその理由を求めることができると考えられます。
変同余詰を不完全としないという結論を採用するならば、変同手順中の中から、余詰様の手順を含む手順を作意として設定することは作意手順の設定の失敗を意味する。
結局のところ、本手順の中で変同関係にある手順でかつ、これらを基準とした場合の余詰順のない手順が作意の候補として客観的に絞り込まれることになる。


4.作意手順客観化の影響


作意手順が客観化すると一般にどういう影響があるだろうか。
実を言うと、これは「作品の完全性について客観的な評価が可能になることに加えて、解答者にとって解答すべき手順を推定するにあたって、作意を推定する手がかりとして有用になるのみである」ということになると考えられる。
作意手順を推定する際に、非限定等の許容された攻方着手ではないことが明らかになるのであり、本手順という集合のなかの部分集合たる手順であることがわかるのであり、それが解答の上で一つの指針を示すものであることがわかる。


5.作意手順客観化論の要否について


上記の議論を香龍会の二次会において言及したところ、

それはもはや作意という用語を用いるのではなく、第三の別の用語によって規定すべき手順になるのではないのか

との趣旨の意見をいただいた。
この意味でこれを「客観化作意」とでも名付けていわゆる「作意手順」とは区別された概念であるという定義を与え、これを基準に変化と紛れを定義していくという手法である。
この考え方を用いる場合には、どのような議論が展開されることになるだろうか。

確かに、作意手順とは主観的に決定されるものである、という一方で、それがルールの逆進性から客観化するという説明の仕方は非常にわかりにくい。
それならいっそ、二つを別の概念として取り上げたほうが簡明である。そのこと自体は正しいと思う。
しかし、一方で以下のような問題も生ずる。

一番の問題点として挙げられるのは紛れや変化という用語の定義とルールによって導出されるべき客観化作意が循環論法によって定義されていくことになるという点である。
客観化作意はその性質上、変化や紛れという用語によって組み上げられる必要がある。これを別の概念として取り上げて変化や紛れという用語の定義に重要な役割を持たせてしまえば、これら概念は定義上論理が循環してしまうのである。

他の問題点としては作意手順という概念がおよそ形骸化することにあろう。あくまで作者の意図という意味しか持たないというのであれば、結局のところ、客観的な基準で本手順ないし客観化作意が決まってくる以上、妙手説が採用されていない現状としては、作意手順に意味がなくなることがありうると思う。
詰将棋を鑑賞するにも解くにも、その分析としては客観化作意もしくは本手順をみればいいのであり、作意手順という概念は顧みられなくなる可能性は否定できないであろう。

もちろん、客観的作意は作品の完全性を判定するうえでとても便利な概念である。主観的な概念が客観化するという点も語義が矛盾するとの批判もあり得よう。
客観化理論による場合には、理論上は主観的に決定される作意手順を基礎として紛れも変化も定義されるのであり、ルールが構築されるという体裁は採る。作意手順が客観化されるのは作意手順の設定を本手順のうち、完全性の要求を満たすようにしなければならないという創作上の制約から本来作意手順がこのように設定されるべきである点から説明ができる。
むろん、逆進性があるという以上は、この意味において論理の循環と同様な疑問は生じるというものではあるが、あくまでも作意手順が先に定義され、その定義を基準に変化紛れが定義され、作意がいわば再定義されるというような流れをくむのであって、循環論法によって双方が同時に定義されるという関係とは違うということは説明できると思われる。

とはいえ、この違いは定義論の一端に過ぎず、形式的な問題に過ぎないという点は否めない。第三の手順として新たに定義したとして、用語としては非常に使い勝手がよく、誤解を生じにくくなるという点で優れているのは間違いがなく、定義だったり理論において矛盾を有しているかどうかというのは真に議論のための問題に過ぎないということである。
それゆえ、理論的立場はともかく「客観的作意」に相当するような用語はあってもいいとは考える。


プラスα:作意推定の一般論として

解答の際に作意を推定する際には上記のような客観的作意の決定基準が一つの助けになるというのは間違いない。
ルール理論上、駒余りの禁をルールに含めるべきではないという意見もないわけではない。だが、結局のところ、作意を推定する際には駒が余らない手順が作意設定されているのであり、駒が余れば不正解だと思えばよい。
また、変同余詰の理論から見えてくるように、非限定などのように許容される場合を除いて、攻め方の着手について複数の選択肢が存在している場合には、その手順は基本的に間違っていることがわかる。
解答に際しては、そういう判断方法がこれまでの理論研究からわかることになります。










※1この「完全性の議論」に似た問題に「キズの議論」とも呼ぶべき議論も存在する。この「キズ」という用語についても人によっては意味合いが異なることがあるが、このブログではhttp://watakusimi.blog64.fc2.com/blog-entry-149.html#5においても記載した通り、「評価するうえで減点事項となるもの」と定義する。
これは、キズの有無は「完全性議論」に一切の影響を与えず、「不完全」と「キズ」は完全に分離された別個の概念であるという趣旨である。即ち、詰将棋として完全であることを前提として、詰将棋の出来栄えを評価するときに良くないとされる類型という意味である。
これに対して、人によっては「キズの程度が酷ければ詰将棋として認めるべきではない」などの理由から、キズの延長線上に不完全というものを据える、いわば程度の差の問題でしかないと捉えている場合もある。

※2本文中に挙げた「無駄合議論」は形式分類をすれば「駒余り」の枠組みの問題である。
スポンサーサイト

comment

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

Trackback

http://watakusimi.blog64.fc2.com/tb.php/152-5ad75cdf

 | ~home~ | 

プロフィール

結城 桃燈

Author:結城 桃燈
FC2ブログへようこそ!


最近の記事


最近のコメント


最近のトラックバック


月別アーカイブ


カテゴリー


ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる


ブログ内検索


RSSフィード


リンク

このブログをリンクに追加する
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。