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評点と評価について

どうもこんにちは。
また議論になりそうな話題ではありますが、まぁ、ブログのネタにしようということで、タイトルの通りの話をしてみようと思います。
詰パラで出題された詰将棋作品には、解答者がA,B,Cで評価をして、それを点数化したものが公表されます。
この評点について、しばしば、ネット上で見かける言説なのですが、「この作品の評点がなぜこんなに高いんだ」とか「この作品の評点が低すぎる」みたいな意見を見かけることがあります。
これについて、ちょっと考察してみよう、というのがこの記事になります。

これに関してボソッとつぶやいていたのがこちらです。

評点がどうのという発言は、論理的にはまず作品に対する評価があって、その評価と評点とがズレていることが発端になるものである。技術的な極みとも言える17手七種合を無機質だとする評があるように、評価と主観は不可分であり、故にそのズレは本来必然的である。評価の集合たる評点の意味を考えたい

一応このコメントにできる限り自分の考察を詰め込んだつもりではあるのですが、これをより細かく検討していこうと思います。

一応、このコメントの中にも書いたのですが、論理的な問題として、ある作品の評点について高すぎるとか低すぎるという言説が登場するには、前提として「その作品に対する発言者の評価」が存在していて、「その評価と評点にズレがある」という構造を持っていると考えられます。
「発言者の評価」という表現に異を唱える方もおられるかとは思います。作品そのものの価値の話をしているのだ、と。
この考え方もありうるとは思いますが、しかし、その場合には「作品の価値」を測る尺度は何なのか、という点を明確にしなければなりません。
何らかの客観的な価値尺度を問題としているのであれば、客観的である、すなわち一定の説得が可能であることにほかならず、そのような理由付けがない限りそれは独りよがりの理論にすぎないからです。
この点、具体的な一つ一つの作品について、どのような価値があるのか、といった個別的な説明はすることができるとは思いますが、それら説明が果たして客観的に価値を表しているかどうかという点および、そのことから何らかの客観性を有した価値尺度を構築できるかという点において、なお検討の必要性があるでしょう。
私はこの点、「17手七種合を無機質だとする評がある通り、評価と主観は不可分である」と考えています。
このコメントを詳論します。
七種合は玉方の7種類の合駒による応手が存在する以上玉方は7手を必要とします。そうすると攻め方は8手となりますので理論上最短手数は15手ということになるわけで、17手七種合作品というものは、この理論値に肉薄した作品であるということがわかります。
これは技術的な問題として考えると、明らかに最高水準のものであることがわかります。技術論という点で考えると、他の作品の追随を許さないのではないか、と思われます。これまでの最短記録を8手短縮するという大躍進であり、下限が定まっている世界での肉薄という点では、最長手数作品として2番目から300手以上もの大差をあげている「ミクロコスモス」に比肩しうる、または凌駕する技術と思われます。
「思われます」というのは、私には短縮化、長手数プロットのどちらの技術においても詰キストと言ってはならないズブの素人であるために、技術としてどれほどの難易度であるかについて確証を得ることができないためであるのですが、少なくとも「七種合短縮化」という枠組みのみで見た場合には最高の技術であることになります。
それでは、この作品、最高の評価になるかというと、ところがどっこい、「無機質だ」「人間味がない」として「あまり好きじゃない」という評が散見されるわけです。
このあたり、価値判断としては「形の良さ」「解後感の良さ」「とっつきやすさ」等の要素についても作品の評価の要素として考えるべきである、というものがありまして、「技術の高さ」「手順の良さ」という点だけで必ずしも判定されるものではないという意見があることに基づくのですが、これら諸要素に一定のレベルでのトレードオフ関係を見出すとすれば、先述の要素の一部が切り捨てられてしまうこと自体は、一方においての極限を体現した時点で致し方ないとみるべきではなかろうか、となりうるわけで、このようなトレードオフ関係の確認のために「犠牲になったそれら諸要素との関係で、なお改善の余地があるかどうか」で考えるべき、という議論まで導き出せそうだ、ということになります。
このような議論は私の見る限りでは見つけておりませんで、そうすると、諸要素についての「重みづけ」がされた結果なのだろうと考えられるわけで、この「重みづけ」が主観に他ならない、というのが私の意見なのです。
実際、「七種合短縮化」というテーマにおいて最高の技術水準であることが明らかであるにもかかわらず、「七種合短縮化」というテーマがそもそも陳腐であるという評価以外で、評価にばらつきが存在するという事実を説明する方法はこのような「重みづけ」等の違いという説明の仕方になりそうだなぁ、と思います。
まぁ、「重みづけ」だけがその可能性であるというわけではないでしょうけど、思いつきません。

このように、それぞれの評価者の持つ主観的な価値判断基準というものによって評点が構成されていくということを前提において考えますと、以下のような推論を得ることができます。

まず第一点、諸要素の関係がトレードオフにならない限りにおいて作品の質が向上し続けている場合、すなわち諸要素についてパレート改善ともいうべき状態になっている限りにおいて個々の評価者の評価は上昇をし続ける。
この点は少なくとも理論上は正しいといえると思う。問題は、人によってどの段階でパレート改善が不可能な状態、すなわちパレート最適となるのか、について全く何も言うことができないのである。
評点自体は個々の評価者の評価の総体であるのであるから、評点についても、個々の評価者の評価がパレート最適になるまでの間、評点は上昇し続けることになる。
そうすると、ある一定の評点以下の場合にはパレート改善が可能であることになるわけで、つまり詰将棋としての改善が「確実に」可能であるということができるのである。
(なお、ここでいう「改善」とはその作品そのものの手直しに限らず、より良質の作品を作成することが可能であるという意味である)

次に第二点として、諸要素の関係がトレードオフの状態を生んだとき、すなわち諸要素についてパレート最適ともいうべき状態にあるときにおいて、個々の評価者の評価がどうなるかは判定できない。
評点としての個々の評価者の評価の総体を考える場合には、個々の評価者の評価が全体としてパレート最適になるとその評点がどのような増減をもたらすかは判定できない。
このような状態になった場合には作品の質を向上させることができるかどうかは不明である。少なくとも、すべての評価者の評価を落とすことなく全体の評点を上げることができないのであるから、主観的なレベルにおいて質を向上させたことを判定する方法はないのである。

それでは、評点には意味がないのか。
それは違うと思う。結局のところ、評点から見ることができるのは個々の評価者の評価の総体であるという事実を前提にしていれば、評点を上げることにはそれほどの意味はない、ということはできるだろう。
だが、そうだとしても、評点から見ることのできる事実からまったく何の情報も獲得することができない、と即断することはできない。

評点を上げるという点でのみ考えた場合には、評価者全体の評価の高い作品を作るほかはないことになる。
そうすると、作品の表現に対してまんべんなく理解してもらうことができ、かつ多くの評価者の賛同を得られる形での作図をするか、その作品を理解し評価できるもの以外に解図できないレベルにするしかあるまい。
なんとなれば、作品の真の意味は理解できないレベルの解答者が解図できるようなレベルの作品であったり、解図した人が作品の意味は理解しても、その表現に賛同しない人が多く存在するような作図をしてしまえば、これは勢い評点が低くなるに違いないからである。

逆に言えば、この事実こそが、新たな知見を得る手がかりになろうと考えるのです。
評点が高いということは、「その作品を理解し、かつ、当該表現に重みを付けるような人しか解図できないレベルの作品である」か、「多くの人が解図できる程度の難易度であるものの、作品の内容が理解しやすく、かつ、多数の解図者の重みづけに合致している作品である」かのどちらかであることがわかる。
評点が低いということは、「その作品を解図した人が、その作品の表現の意味を正確に把握できていない作品である」か、「その作品を解図した人が、その作品の表現の意味を理解できるが、重みづけが違うために評点が伸びない」かのどちらかなのである。

このように考えると評点が高いことには基本的に何ら問題はない。なぜなら、評点が高いということは少なくとも解図し評価した者に意図した表現が伝わり、評価されていることに他ならないからである。
仮に大衆的な評価に迎合した作品であったとしても、その作品が「易しくも解りやすく、楽しんでもらいたい」という形で作図されているのであれば、評点が高いことは目標達成である。

逆に評点が低いということは二つの可能性を持つわけである。
それは、「表現の中身が分かりにくい」か「表現が一般的に受けない」かのどちらかである。
とりわけ前者の場合には、意図した狙いが伝わっていないことになるわけだから、これについては作品の再考の機会になる。
もっとわかりやすく洗練して表現することが可能なのではないか、という問いを立てることができる端緒なのである。
自分に理解できるから他人も理解すべき、なのではなく、表現が不要なまでに難解である可能性はないか、と考えるほうがよりよい作品を作るためには建設的な発想だろう。
また、後者の場合にも新たな知見を得る可能性はある。むろん、自身の確固たる価値観に基づいて表現した場合に、その価値観が評価者の総体と合わなかったというのであれば、仕方のないところであるが、自身が見落としていた価値観や見方がそこに潜んでいる可能性がないわけではないだろう。
つまり、そのような何かが存在するかどうかを再考する機会になるということである。
むろん、この時に、自分自身の価値観を放棄し、大衆迎合をする必要は全くない。考察した結果、評点の低い原因を解明し、結果として自身の価値観と相いれないことが判明することもあるだろう。
そうであるならばそれはそれで構わないことである。私が言っているのは、自分の価値観とのズレの中に、新たな発見をする可能性を逸失してしまうような、端から評点を軽視するような態度は果たして良いのだろうか、ということである。

私は評点という点で見れば、パレート最適に到達しないレベルの作品しか、まだまだ作図できていないと思っていますので、評点が上がれば上がるほど、作品の質が上昇する段階にあると思っています。
その意味で、評点から得られる情報も極めて直截的なものなのだと思います。

しかし、一方で、そのような次元をすでに超えていて、常にきわめて高い水準の作品を排出する作家の方々についてであったとしても、評点は「作品の質を図るもの」ではなく、新たに自己反省をする契機としての価値はあるのではないかな、と思うのです。
このような視点から、考えてみれば、評点というものに対する感情も変わってくるのではないでしょうか。
少なくとも、評点は当てにならないとか、一般受けする必要はないだの、評価者はなぜ分からないのだ、といったように端から評点について否定して考えるのではなく、この評点から何か得られるものがないだろうか、というポジティブな感情を持つほうが良いような、と愚見ながら申し上げるのです。
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