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日記的空間

主に、私見のために使用するスペースです。 所々、日記的に気ままに書いたりと、アトランダムな使用をしていきます。

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詰将棋とコンピュータ

ツイッターにおいて散々わめいたので、せっかくだからブログに纏めておこうかなと思います。

PCの性能って近年、個人使用を考える上ではこれ以上性能を伸ばしても余り意味が無いのではないかというところまできている。オクタコアCPUがフル稼働するようなタスクをする一般人がどれほど居るのか、という問題である。ウルトラブック市場の隆盛を見たらこの傾向は明らかである。

何が言いたいかというと、将棋関連で「全検を前提としたプログラム」は作っても意味が無いということ。無限に時間をかけて研究するとか、京のような研究用ならともかく、実用的な時間でそのプログラムを走らせることは出来ない。それに要求されるパワーのあるPCを作ることに意味が無いからである。

将棋ソフトが、今を持って「評価関数」という手法をとり続けているのも、このような現実の中、「全てを読むことが出来ない中でどのように選択するのが良いのか」という考え方をしている証左であると言えよう。これは詰将棋でも同じで、およそ全検は非現実的で、柿木が解けない作品もこれが原因である。

「詰将棋を解く」に限って言えば、df-pnアルゴリズム等の探索手法の進化によって、極めて高レベルな状態にあると言っていい。しかし、「詰将棋を作る」となると、殆ど研究されていない(と私は認識している)。詰将棋おもちゃ箱で解図プログラムと組み合わせて行われているが全検の域を出ていない

初期局面を全検するということは、それは即ち、将棋の局面を全検するに等しく、ただそれだけで、条件を絞らなければ不可能である。これに解図の負荷がかかるのだから、なおさらだ。つまり、局面を探索するための有効な探索手法が開発されない限り、PCで作図するのは現実的とはいえないのである。

このように考えると、「詰将棋を作る」と言う場面において、PCが強力な力を発揮するのは明らかに「逆算創作法」である。逆算に焦点を絞れば、あるいは創作プログラムは容易に作れる可能性があると思うし、創作手法の特徴から、出てくる作品の安定感も高い可能性すらあるだろう。

実際、「完全逆算」は豆腐図式において論文が出ており、全検されていることがネット検索で確認できる。「完全逆算」を「逆算」に拡張する手法がそのうち出てきても不思議は無いだろう。これが実現したとき、詰将棋はただの逆算では評価されなくなり、平行移動法なりの手法が要求されることになる訳だ。

実際のところ、ただの逆算だけであれば、解図ソフトを駆使して手動で少しずつ進めることがおそらく可能である。その際に、どのように逆算するか、その逆算のためにどういう駒を配置する必要があるか、というのは手動による試行錯誤になるが、例えばスマホ詰パラ3124はそうやって作っている。

スマホ詰パラ3124は詰上がりから作ったが、どうにもセンスが無い。解図ソフトを駆使しても手動部分がある以上、その部分に作者の技量が問われるからである。これがもし仮にソフトであり得る逆算選択肢を提示できるようになったら、逆算のセンスは不要になるのだ。

一方で形から入る「正算創作法」はこうは行かない。プログラムをもってしても選択肢が多すぎるのだ。探索手法のブレイクスルーが確実に必要である。今現在の時点では、解図ソフトを駆使したとしても、題材となる「ある程度手のある詰む形」を探索するのは手動である。しかも完全作に整えなきゃならない

解図ソフトがあるおかげで、発見は随分と容易になった。探索場所までは自分で歩く必要があるが、その場所に鉱脈があるかどうかは金属探知機が教えてくれるからだ。ただ、この金属探知機は自分でスイッチを入れないとその場所を調べてくれないのではあるけれども。

解図プログラムとの付き合い方、という点で考えたら、今現在はどの途、使う人の技量次第という面がある。逆算で駆使しようと正算で駆使しようと、時間短縮以上の効果を生み出してはいない。私の場合数千とか数万倍の時間短縮に繋がっているため、現実的に詰将棋を作ることが出来るかどうかに繋がるけど

結局のところ、技術的な向上が無ければ、作品の質は向上しないのが現実。コンピュータが「詰将棋を作る」分野で脅威になることは今のところ考える必要は無いんじゃないかなぁとは思っている。逆算プログラムとか作っても、構想や趣向機構作りや移動創作法とか、やっぱり技量の問題になると思う。



これだけ連投したらそら目に付くと言うものではあるけど、ここで言おうとしていることが具体的な創作論ではないのですよね。
コンピュータのハード性能の進化に関する近年の外観と、そこから詰将棋創作において与える影響を考察しているだけである。
別に私のことを名指ししているわけではないので、果たして私の文章に対する意見なのかどうかはわからないのですが、ツイッター上で確認したそれらしき言説は概ね、実力不足の逃げ道を作ってるとか、理屈ばっかりこねて、やるべきことやってないとか、あんたの実力でそういうこと言うか、みたいなものばかりだった。好意的な反応は見つけられなかった。

私自身の作品を例に取っていることが誤解の種だったのでしょうか。
私の作品は「コンピュータを駆使しても、使う人間の技量が低けりゃこんな結果に終わるんだ」という意味であって、コンピュータを使えば必ずしもいいってもんじゃない、と言う意味になるのだけど、どういうわけか、コンピュータを使ってるから作品が悪いみたいな読まれ方をしている気がする。

棋力が低くても、いい作品を作っている人もいるんだ、みたいな話もありますが、私、ヤン詰め解けないんですよね……
二桁手数に突入するとどうにもならない確率が劇的に上昇する。私が自分で作った初めての作品であるヤン詰め解付きに掲載された19手詰めは自力で作ろうとしていましたが、あれだけ変化紛れのない作品でさえ、数時間かけて詰むことがわからない程度の棋力なんです。
盤の前で座り込み、上手くいかないので、やっぱり詰まないのかな、とコンピュータにかけて初めて詰むことがわかった。
最近は、スマホ詰パラで一日5作というペースで詰将棋に触れている関係で、大分読めるようになってきていますけど、最初からコンピュータに頼るのはダメ、と言う話になれば、一つ作るのに、現実的な時間では無理でしょう。
所詮趣味にそこまでのリソースをつぎ込むくらいなら、作りませんよ。
コンピュータがあるから、自分の作品、「詰む将棋」に毛が生えた水準の作品が、ようやく現実的な時間で作れるってだけ。

無論、そんなやり方でその程度のものを作ることに意味がないと言う考え方は理解できないわけではないんですよ。
私としても、「もっと本格的に詰将棋界に参入する気があるのであれば」、そんなやり方じゃまともな作品が出来るようになるまでに何十年かかるかわからんぞ、と言うでしょう。
ただし、現状の詰将棋界は創作技術についてを講義するような場があるのが前提。つまり、「理論的な云々がわかっているにもかかわらず、そんな妥協してたら伸びない」からそう言うのですよ。
逆に言えば、それじゃぁアカン、と言うだけで、自分で試行錯誤せいって言うのは、無責任じゃないかなぁ、と。
私とて、何作も駄作を作ってきて、ようやく、こういうのはこういう批判を受ける、こういうところにこういう手を入れたいとか考えるのか、と言うのが少しずつ見えてきている段階。
最初からコンピュータを使っているのも、そうしないと取っ掛かりさえ掴めないからであって、最終的には、こういうことをやってみたいから、こういう配置を考えて、と言ったところまでいきたいとは思っている。
ただ、今のところ、そういうやりたいことを思いつくレベルにさえ到達していない。一般論ですが、自分の知識水準に存在しないものは通常思いつくことは出来ないもので、私の詰将棋作成技術水準はその段階にあるのだ。
また、思いついたところで、それを図化する技術も付いてきていない。技術がないところで、何時間も時間かけて、延々と苦悩してしんどくなっても仕方がないので、とりあえずは纏める技術を磨く。
これだけなら、素材探索と修正の繰り返しだから、今の技術でも現実的な時間内に出来る。

私自身、才能もなければ情熱もないと、自分自身で思っています。
また、そうであるが故に、マニア側の人たちからみたら、声だけでかいくせに真面目にやってない、くだらないやつ、に見えるのでしょう。
でも、それはその人たちからみて、想定も出来ないほど低い水準に私が居るからだと思うんですよね。
そんな不才が詰将棋界に入ってきても、何の貢献もしないわ、と言うなら、私の言葉なんてまるで価値がないので、まさに無視すべきかと思います。
ただ、私は、底辺を拡大することが詰将棋界にもいい風をもたらすんじゃないかと思っているので、そういうところまで、マニア間の辛辣な物言いをしなくてもいいんじゃないかな、と言うことは常々思っています。


なんだか、まとまりのない文章になってしまいましたが、コンピュータに関しては、間違いなく、その人が(時間を無制限にかけたら)出来ることまでしか出来ない、と言うところだと思います。
作品の質の平均値こそ押し上げるかとは思いますが、憂慮するような問題は起きないだろう、と言うのが当初の言説でして、それ以上のことを言ってはいなかったことだけは最後に強調しておきます。

私自身の詰将棋作りの姿勢はともかく、この部分に関しては、そういうものとして読んでいただけたら、と思います。
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comment

[15]

コンピュータを用いた逆算については、時間短縮をしているだけで立派な創作である、という意見も頷けます。
なぜなら逆算手順自体はコンピュータが提示するのではなく、作者が予め想定するものだからです。

しかしコンピュータを用いた正算ではコンピュータが手順の全体を提示します。
それでは作者は何を創作するのでしょうか。
手順ではないとすれば配置(持駒含め)でしかありえません。

しかし、配置を並べるだけでは創作になりませんよね。
絵を創作したと言うのであれば認めなくもないですが、詰将棋になっているかもわからないものを「描く」だけで詰将棋創作というのは暴論でしょう。

では配置の微調整が創作?
それは普通、余詰消しと呼ばれるものではないでしょうか。或いは推敲と呼ばれるものである場合もあるかもしれませんが、ともかくそれは創作の一部、最終段階であって創作ではないと考えます。


纏めますと、私の考えとしてはコンピュータを用いた逆算は創作ですが、正算はただの宝探し+その研磨です。
まあしかし創作されたものであれ発見されたものであれ、詰将棋が素晴らしいものであれば評価はします。
見る側に立てばできた過程に関わらず同じものですからね。

[16] Re: タイトルなし

>ikz26さん
コメントありがとうございます。

えと、一応前提問題として私は「正算創作法」と言う言葉を「とりあえず盤に駒を並べて、そこから詰む手順を考える手法」と位置づけ、「順算創作法」と言う言葉を「収束を付け足していく手法」と位置づけて文章を作っています。

そうしますと、「正算創作法」って、駒を並べた段階でその図式には「詰む」か「詰まない」かの2通りあって、「詰む」場合にはその手順も存在しているのですね。
ですので、コンピュータを使っても使わなくても、「正算創作法」という手法においては、その「詰む手順」と言うものは発見するものに過ぎないのではないかと思うのです。

>>コンピュータが手順を提示する

という表現がどうにも私には不可解でして、コンピュータが提示するのではなくて、「詰む手順」と言うのはその局面に初めから存在しているのであって、コンピュータが発見するのか、人力で発見するのかの違いだと思うのです。

つまり、「正算創作法」という手法がそもそも「創作」という表現に馴染まない、あるいは「創作」と言う表現は間違いである、と仰るのであれば理解できるのですが、もし仮に人力正算の場合は「創作」と認めていいとするのであれば、その考え方は未だ私の理解できるところではないのです。

用語法としては私は「逆算創作法」「順算創作法」「正算創作法」という用語を用いていますが、「順算創作法」も既にある配置や手順の制約の元収束を足すことになるので、ikz26さんの言う「創作の一部、最終段階」で用いられる手法という印象があります。
そうすると、創作手法と言うものは他にもあるとは思いますが(そういう技術論講座があればいいのになぁと思うのですが、みたこと無いんですよね……)、少なくとも上記3手法に限定して言うのであれば、「逆算にあらずんば創作にあらず」ということなのかな、と思います。


また、私は「創作である」とか「発見である」と言った表現の違いについて頓着していません。創作であろうと発見であろうと作品価値に違いはないと思っているので、自作が「発見」と称されたとしてもとりわけ気にしていません。
ただ、創作と言う表現を使うのは認めたくないという意見があることを踏まえまして、本件記事においても「用語法として創作と言う言葉を使う場合以外に正算創作法に基づいている詰将棋については『作る』という表現を使う」と言う形を取らせていただいています。
創作か発見かという議論をしようとしているわけではないので、無用にその部分で波風立てないようにと言う意味をこめています。

あくまでコンピュータを使っても今現在は作者の技量の(時間を無制限に与えたときの)上限を超えないのではないかという点が主眼の記事なんです。


自作につきましては、形を整える技術さえも未熟であるため、余詰消しや、収束を整えるだけで精一杯で、あんまり創作にはなってないと思います。
中には明確な目的も持たずに並べているものもありまして、そういうものはまさしく発見と言うにふさわしいと思います。

一方で明確な狙いを求めて並べている作品もあります。自作の詰パラ初入選作は限定合の作品が作りたいという動機から「初手24香から23に限定合が出てくる配置を探そう」という形で作っていますし、2回目の入選作も「初手は16香になって合駒」と想定したところどうやら「中合」になりそうだと言うことで作っています。
入選こそしませんでしたが、ヤン詰めに掲載された作も「大駒を捨てて玉方の金を翻弄する手順」を目標に配置を探しました。
今現在幼稚園に投稿中の作品は詰上がりを目標に正算した5手詰め(目標自体は失敗しましたが)から、盤上配置の駒を持駒から打つ手順にしてみようと、9手まで逆算した作品です。
私は、これら作品を全て「正算」だと認識しています。入選作もヤン詰め作も、明確な目標の元に一定程度の配置の縛りが生まれてきており、そういう部分は全く自分の頭の中で考えたものですが、その後の手順は完全に正算から発掘しにいっているからです。


幼稚園投稿中の作品まで行くと、境界ギリギリでしょうね。初手を突っ込むために、余詰めを消す配置で相当図面が変化しました。ただ端緒となった収束部はやはり正算ですし、3手目部分の逆算は非常に簡単なものであること+追加した初手も発想自体はかなり安易ものなので、正算の余詰消しや推敲と大差ないものだと思っていまして、その部分を逆算創作だ、と言ってしまうのも変だろうと思います。

この辺はどこまで逆算したら創作なのか、という議論に繋がっていく問題なのだろうと思います。
ただ、前述の通り、私は創作か発見かという議論にそもそも余り首を突っ込む気がありません。
ただ、コメントを頂きまして、私はこういう風に感じていますよ、というものを書かせていただきました。私自身は、そんなの創作と認めない、という意見があると言う点を踏まえまして、自作については創作という表現をしないよう心がけようとは思っています。

一応本件記事は創作発見議論とはずれたところにあるものですが、参考にしていただけたら、と思います。
コメントありがとうございました。

[17]

私の想定していたコンピュータを用いた正算というのは、例えば裸玉に代表されるような特定の形を並べ、持駒を調整する、といったような類のものでした。
この点仰っていたものと相違があったようでお詫びさせていただきます。

そして、人の行う正算はこうではありません。初めは適当な形(もっとも、仰るようにこういう中合を出したいからこんな形、或いはただ単に実戦形などとある程度まとまりのある形であるでしょうが)から、これならこういう捨駒が出せそうだな、とか想像を膨らませ、色々な方向に展開させるものだと思っています。

それから、もう一つ隔たりがあると思うのは、無限の時間を定義しているところです。
記事中にもあるように、逆算は手が狭いのですが、正算は無限に可能性があり、すなわち全ての可能性を読もうとすれば無限に時間がかかります。
しかし人間は無限の時間を生きていられませんよね。
人生の全てをかけても見つけられなかったかもしれない手順を見つけて、単に時間短縮した、と言い切るのは無理があるかと思うのです。

では自力の裸玉創作は創作ではないのか。
伝統的にはこれも創作ですので、創作だと言ってもいいと思うのですが、個人的には発見と言う方がしっくりきます。
まあそもそもこんなことをやっている人は少ないと思いますが。

基本的には「(メインとなる)手順に創意があれば、手順を自分が考えたのであれば」それは創作だと思っています。
ですから、
>>一方で明確な狙いを求めて並べている作品もあります。自作の詰パラ初入選作は限定合の作品が作りたいという動機から「初手24香から23に限定合が出てくる配置を探そう」という形で作っていますし、2回目の入選作も「初手は16香になって合駒」と想定したところどうやら「中合」になりそうだと言うことで作っています。
これは創作と認めていいと思っています。ただ、はじめはコンピュータに参考となる手順を教えてもらったとしても、それが最善とは限りません。そこをもう一度もっとよくならないか、と考えた方がいい作品ができるかなとは思います。

[18] Re: タイトルなし

>ikz26さん
再度のコメントありがとうございます。

なるほど、と思うところも多くありました。
とりわけ、
>>基本的には「(メインとなる)手順に創意があれば、手順を自分が考えたのであれば」それは創作だと思っています。
と言う部分は、「創作か発見かというものを区分する基準を考えるとき、どのようなものがありうるか」というものを考えたときに、「逆算以外認めない」というものとは別にこういう基準も考えられるだろうと思っていたところで、私としても、変に形式的な物言いになるより納得できるものでした。

私の感覚を更に付け加えますと、裸玉創作は「研究」という表現がしっくりくるような気がします。
時間に余裕があれば「研究」してみたいなぁと思うテーマで、玉座裸玉はもう出てきているので、天王山裸玉を調べてみたい、とか思うことはあります。
ただ、途方もなさ過ぎて、手がけられませんが^^;


無限の時間については、少々議論の前提にズレがあるのではないかと思います。
詰将棋を作るときにコンピュータを利用するという場合、正算の場合でも、「局面を手動で設定」してから「当該局面に詰む手順があるかどうか」を判定する際に使うことになります(詰将棋おもちゃ箱で実験されている置き駒サーチ等はこれとは異なる新しいアプローチですが、全検に留まる限り実効性が低いのは記事に書いた通りです)。
これに対し、「正算は無限に可能性がある」という表現で想定されている「無限(と言っても過言ではない数)の可能性」というのは「局面の数」を指していると思われます。

つまり、「局面の数が無限に存在する」という事実と「特定の局面に詰み手順が存在するかを検討する時間の短縮」という問題を混同しているように思うのです。
局面の数が多すぎるため、プログラムを使って局面選択の部分まで自動化することは今のところ現実的ではありません。
ですので、「どの局面を検討するのか」と言う部分は当面の間手動で行われます。確かに、詰み手順の有無の検討時間が短縮されることで、検討できる局面の数は極端な話では数千倍になると言えるかも知れませんが、全局面数の0.1%も増加しないので、確率論として「出会うことのありえなかった新発見の手順」があるかもしれないという確率は無視できる水準だろうと思います。
まぁ、直感的なものではありますが、人間の持つ「詰みのありそうな局面を見つける直観力」を考慮に入れても、出会うことのありえなかった手順に出会うと言う確率はかなり低いのではないかとみています。人間の直観力を数値化するのは難しいですが、それを無視した数学的計算をしたら殆どゼロになろうかと思われます。


私の記事では「逆算の局面数」に限れば、局面数が(正算の局面数に比較して)圧倒的に少なくなると考えられるので、「どのように逆算することが出来るのか」という選択肢をプログラムで探索することが出来るようになる可能性のほうが、正算の局面を探索するよりも可能性が高いと考えています。
現在の逆算は「どのように逆算するか」という選択自体は人の手によって行われており、「実際に行った逆算が成立しているかどうか」の部分でコンピュータが用いられるという形になりますが、この関係が破られる可能性は考えていいかもしれない。

逆算の局面数が比較的に少ないから時間短縮という表現で良いかというのも一応考えなくてはならないかとも思います。
逆算は頑張れば出来ると言っても、スマホ詰パラ3124は「コンピュータ使って数日かけてあれ」ですからね。人生かけても出会えなかった手順に出会う確率が正算と比べて極端に低いとも、私は思えないのです。正算はそもそも局面数が多すぎて終局的な確率が低くなる、逆算は選択肢の狭さから出会えない局面が少ないために終局的な確率が低くなる、とは言えそうですが、正算の局面数が膨大すぎるので、逆算のほうがそういう手順に出会う確率高い可能性も決して否定できない気がします。


最後の
>>ただ、はじめはコンピュータに参考となる手順を教えてもらったとしても、それが最善とは限りません。そこをもう一度もっとよくならないか、と考えた方がいい作品ができるかなとは思います。
と言う部分に関しては、まさしくその通りだと思います。
今現在は、「完全作に整える」ことに精一杯でなかなか出来てはいませんが、「この龍が捌けたらなぁ」とかそういう形で収束を整えることとか、「キーとなってるこの駒、序で発生させたい」と言う形で序を弄りなおすとか、そういうことが出来るようになると言うのが次のステップだと思っています。
こういうことって「思いつくことすら出来ない段階」から「思いつくようになる段階」「実装できるようになる段階」と技術が上がってくるものだと思っていまして、現在私は一段階目と二段階目の間あたりだと思います。
一段階目から二段階目のステップアップに必要なのは「そういう発想があると知ること」でして、どうしたらそれが出来るか、と言いますと、作品に対してしばしば表れる「こういうことがあると良いのに」とか「この手を入れたい」といったコメントを読むことだと思います。
これは、スマホ詰パラのコメントや詰パラの短評等で出てくるもので、そういうものが見つけやすいため、ステップアップもしやすいとは思います。
問題は二段階目から三段階目。思いつくことは出来るようになっても実際にやるとなるととたんに暗中模索、五里夢中になってしまいます。
この二段階目から三段階目に向かうのに必要なヒントというかアドバイス(その意味で、技術論講座のようなもの等)って個人的には殆どみたことがなくて、殆どが「試行錯誤だ」とか「練習だ」といった抽象的な物言いが多いのは非常に残念なことではないか、と言うことも私は言いたいところなのですね。
例えば、三輪さんの改作なんかは賛否があるところではありますが、あれは私は「自分ならこういう発想をする」という一段階目から二段階目に到るための情報と「それを自分はこのように実装する」という二段階目から三段階目のステップを見せるという、そういう教材としての価値があって、とりわけ後者の部分について数少ない貴重な意見になるのではないか、と思うのです。
最初から上手い人はいない、練習が大事、というのも正しい意見ではありますが、ではどのように練習したら良いのか、そもそも何をドウシテ良いのかわからない、と思っている人に、そのような正論をぶつけたところで、「ワカラン、ツマラン、辞める」になってしまうんじゃないか、そう思っています。
それよりも、「こういうやり方があるよ、こんなやり方もあるよ」と言うのを教えてみて、「なるほど、凄いな、面白いな」と言う段階を経て「じゃぁ君ならどうやってみるか考えてみよう」という導き方をしたほうが良いのではないか、と個人的な意見ではありますが思うので、そういうやり方も交えてはどうでしょうか、と言う提案はしていきたいな、と思っています。
勿論、これは裾野を広げると言う形での話でして、いわば「右も左もわからない初心者」に対してどうすべきか、と言う話でして、「分かってる人間の妥協」は糾弾して構わないとは思いますが^^;

私は自分自身を「才能もない、努力もしない」という幼稚な水準だと思っています。それゆえ実力のある人が一気に駆け上がっていく三段階のステップも、年単位で時間がかかる人間だろう、と考えています。
そんな態度のやつはダメだ、と断じたくなる気持ちも分かりますが、例えば「駒交換は味が悪い」という詰キストには常識的な感覚でさえ、私自身は初めのうちはなんとも思わなかったものでして、比較的ライトな層からも多くの投稿があるスマホ詰パラでそういう作品が散見されると言うのも、ある程度の水準にある詰キストとそうでない初心者の違いとして浮き出てくるものだと思います。
こういう「違い」を少しずつ、肌で感じながら理解していくことが出来るのも、私のように「才能がまるでないが故に歩みが遅い人」だからこそではないかな、という気はしているのです。
私のような「非才」だからこそ見えてくるもの、どこで分からなくなるのか、何をきっかけにしたら良いのか、見たいな事が少しずつ伝えられたら良いな、と思っています。
そのためには私自身、もっと技術水準高めないと話にならないのですけど、何年先かなぁ……(-。-;)
ikz26さんがそうとは思いませんが、私のことを批判する人々の言うことも尤もだと思いながらも、それら批判が「出来る人間が上から目線で偉そうに」と受け取られかねないことを危惧しているのです。


何はともあれ、私は先ほど申したように三段階目のステップを前に、「どうして良いかわからない」状態にあります。なかなか時間がなくてブログ更新もままならないことが多いですが、折を見てスマホ詰パラ投稿作などを題材に、「こういうことをやってみたかった、改作見せてください(三段階目へのアドバイス募集)」とか「発展させたかったけどそもそも思いつきませんでした、改作見せてください(二段階目へのアドバイス募集)」とかやろうと思っていますので、そういうときには是非、アドバイスいただけたらと、思います。

最後に繰り返しになりますが、コメントありがとうございました。

[19]

結構自分の頭の中を整理できた気がします。
ありがとうございました。

最後の話ですが、詰将棋作家の中にはきつい物言いの方も結構いらっしゃいます。そうでなくともそもそも詰将棋という世界は敷居が高いようにも感じますし、色々と大変だろうと思いますが、是非この趣味を続けていって欲しいなと私は思います。

長々と失礼しました。

[20] コンピューターの活用

まず文章が長いのでこのコメントは記事をしっかり読んでいない状態で書いている事をお断りしておきます。

現在の市販ソフトのコンピューターの性能はベストでしょうね。完璧に答が出てしまっては面白くない。
しょっちゅう変別に入ったり、解けないのがまれにあったりするくらいがちょうど良い。

だけど完璧に解答と検討が出来るようになったします。
そうすれば適当に駒を置いてコンピューターに解答させる創作方が有力になるかも知れません。
僕は結論としてコンピューターをどのように使って創作しようが、最終的に図面を創った作者の立派な作品と思っています。
仮に手順の創作部分はなくても僕は配置の選び方は作者のセンスだと思います。センスの悪い配置からは良い手順は生まれないと思っています。僕に言わせれば一番センスのいる創作方です。
それにコンピューターに解答を出させた手順が全く下らない手順だったとしても、それは最長手順に逃げた場合でありそれより短い逃げ方をした場合に素晴らしい手順になる場合があります。最長手順を短く詰ます配置を考える事により立派な作品になると言う事です。
実はそう言うケースがもの凄く頻繁にあるのです。
適当に並べても深く変化を研究して良い作品を創れるなら立派な創作方だと思います。
仮にそれで最初の配置で作品になっていても立派な創作と思います。

実は僕の形から手順をひねり出す創作方です。
その形は適当に駒を置くのではなく、人の作品からです。
配置を見て閃きとか、条件を変えたらこんな手順が成立するのではとなったのが素材になるのです。
僕は手順を創り出す才能は全くないのでコンピューターには大分助けられています。
その形では詰まない手順を考える事が出来るのはセンスだと思っていますがね。

[21] Re: コンピューターの活用

> 三輪さん

コメントをありがとうございます。
私自身も解図ソフトのおかげで正算創作法の敷居は低くなったものの、依然としてその創作法の難易度は高いものであると思っています。
具体的にいい手順が出てくる配置がどのようなものであるのかという一般論が存在するわけではないので、どのような配置を発掘するかにセンスが問われるという点、共感を覚えます。

私の場合は最初の配置からの研究が足りないということが批判の対象になっているのでしょうね。
研究が足りないのか、私の実力ではそれが現在の精一杯なのか、という部分について区別せずに一様に研究不足の認定をされているきらいを感じるので、作者の態度そのものの批判につながるからどうなのかな、とは思いますが。

三輪さんのように、最終的に良い作品が出来上がるようになれば文句は出ないのでしょう。
その意味で、私の精進はまだまだ不足しているといえるかもしれませんね。

ともあれ、コメント、ありがとうございました。

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