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詰将棋のルール:続・透かし詰め、もうちょっと詳しく

どうも、こんばんは。

前回の記事では、透かし詰めとの関係で詰将棋における詰みの定義と無駄合について考えうる理論枠組みを整理しました。
その中で、多少の議論も交えたところですが、今回はその中でもB2説、B4説を中心に掘り下げてみようと思います。

っと、その前にB3説の言うところの「無駄合を禁手類似の手として扱う」という表現について補足しておきます。
このB3説において「禁手類似」という表現を使用しているのは、無駄合の位置づけを必ずしも禁手という位置づけとは限らないと言う意味で使用しています。
この辺は、詰将棋のルールをどのように理解するかに関わってきます。

http://d.hatena.ne.jp/mozuyama/20061220/P20061220RULEを参考にしますと、詰将棋において3種類の手が存在するという考え方も十分にありえるわけです。
そして、例えば玉方応手については「合法手の中から選択する」との理解をすれば、無駄合の「禁手類似」という考え方については無駄合は「(C)それ以外の手」に分類することが可能になるわけですね。
B3説は「応手ではない」ことに主眼を置く考え方ですので、「応手とは何か?」という部分の理解の仕方によって多少の考え方の相違が出てくるということになります。
B3説はこのように応手の性質というとりわけ詰将棋におけるコアな部分についてより精密な分析を必要とする考え方ということになりますし、反面、そのような詰将棋の本質の議論をすれば無駄合という枠組みについての議論も殆ど終了するというものであります。
従いまして、B3説独自に「無駄合」としての議論を深めるのは得策とはいえません。
詰将棋の体系的理解を整理しながら考えていくことにしようと思っています。


さて、本題のB2説、B4説を考えていきましょう。
B4説は、透かし詰めの局面においてのみ無駄合の応手性を否定するというものでした。
この説に立って透かし詰めの局面判定をするということは以下のような手順を踏むということになります。

・まず、無駄合は原則として応手性が肯定されるという立場から、当該局面において王手を外す手段として無駄合を認める。
・その局面が、無駄合以外の応手が存在しないことを確認する。
・無駄合以外に応手が存在しない局面は「透かし詰め」であることから、結論の妥当性を確保するために「遡及的に」当該無駄合の応手性を否定する。

一方でB2説は以下のようになります。

・まず、無駄合は応手性が肯定されるという立場から、当該局面において王手を外す手段として無駄合を認める。
・その局面が、無駄合以外の応手が存在しないことを確認する。
・無駄合以外に応手が存在しない局面は「透かし詰め」であることから、結論の妥当性を確保するために「例外的に」当該局面を詰みとみなす。

両者の違いは、論理的には「無駄合の判定→詰みの判定」という構造において、B4説では詰みの判定のために無駄合の判定の段階に遡及的に効果を及ぼし、B2説は詰みの判定の段階で処理するというものとなります。
両者はどちらも「透かし詰めを認める」という「結論を出発点」にしていることには変わりありません。
従いまして、「結論の妥当性のために論理整合性を捻じ曲げている」という批判は批判足りえないでしょう。
結論の妥当性を前提としている以上、当然の現象であるからです。

では、両者にはどのような批判がなされることになるでしょうか。
B4説に対しては、結論の妥当性のために「論理を遡及させる」ことの是非が問われることになるでしょう。
つまり、「一度は応手として認めた着手について、後から応手性を否定するのは論理が逆転している」との批判です。論理の逆転それ自体を許容したとしても、ルールとしてこの枠組みを採用しますと、その理解には大きな障害になるといわざるを得ません。つまり、きわめて分かりにくいルールとなってしまうのです。

一方でB2説には次のような批判がなされると考えられます。
B2説では透かし詰めの局面であっても無駄合の応手性を否定することはしません。そうすると、「詰みとされる局面において応手が存在することになる以上、それは定義上変化と言わざるを得ない。即ち、詰みの局面において変化が存在することは果たして妥当といえるのか」という批判です。
応手性を否定しない以上、無駄合手順が変化長手数にあたることは理論上間違いないことになるのですが、変化長手数手順が「本手順の詰上がりの状態」から発生することになるため、このことをルールとして認めたとしても、分かりにくくなると思います。
個人的には、詰んでるけど変化がある状態、をどのように説明したら良いのか分かりません。非常に難しい概念に思います。
もしかしたら、「詰んでると看做している以上、そこにある変化を気にする必要はない」という話なのかもしれません。が、これはこれで、理論上不都合なところを意図的に無視しているに過ぎないようにも思います。


ここから先、自説を申し上げますと、このように考えると、B3説が言うように、「無駄合は応手じゃない。応手じゃない以上、無駄合以外で王手を外せない、所謂透かし詰めの局面は王手を外す有効手が存在しない。だからそれは詰みなんだよ」という説明の仕方は分かりやすいと思います。
しかしこのように解しますと、無駄合は応手ではない以上、無駄合手順は「変化ではない」ことになります。
そうすると、無駄合の範囲を議論する際において、「変化長手数を認めないという近年の厳しい傾向」が適用されないことになります。このことから「無駄合の範囲が無限定に広がる恐れがある」との批判がされることになります。
しかし、この批判は一つ重大な欠点を持っています。というのも、「何故無駄合の範囲が広がってはならないのか」という理由付けがないのです。
これについて、「無駄合は変長の例外だから」という理由付けをすることはナンセンスです。
なぜなら、B3説は「無駄合は変化ではない」という前提から始まるものであり、「無駄合は変化である」という主張をすれば、結論が対立することは当然であって、問題の本質は「何故無駄合は変化であるといえるのか、あるいはいえないのか」ということを説得すべきであるからである。
少なくとも、今回の考察において、自説としては透かし詰めとの関連において「無駄合の応手性の否定の優位性を説得的に主張すること」には一応成功していると思う。
問題は、これを無駄合一般の問題として拡張することに成功するかという点にあるということになるが、これは透かし詰めとの関係で議論している本記事にそぐわないので別の機会で考察することにしようと思う。

一方で、この説に批判的な立場で考える場合には、「無駄合は応手として認めるべきである」という前提条件を説得的に主張する必要がある。
詰将棋における玉方は「王手を外すことを第一条件にルールが設定されている」以上、王手を外せる着手は全て、応手として認めるべきである、といった主張が考えられるだろうか?しかし、こういうことを言っても、指将棋における禁手(二歩禁など)は応手からそもそも除外されると考えられるので、詰将棋独自のものとして無駄合を除外することもありうるというべきで、それを許さない理由になるにはもう一押しが必要であろう。
私個人が考えるのみでは、ちょっと思いつかないので、「無駄合は応手ではない」という考え方が変だと思う方は、是非私にその理由を教えてください。
無駄合とは何なのか、を更に深めていくという意味において、皆さんと意見を交わせる日が来ることを心待ちにしています。

以上で、今回の議論を〆させて頂きます。読んでくださりありがとうございました。
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